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阿波踊り 阿波踊り

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門田博光の不惑踊り

門田 博光(かどた ひろみつ、1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手)。現在は大阪ホークスドリーム監督。現役時代は南海・ダイエー、オリックスで主に指名打者として活躍した。
40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。
目次 [非表示]
1 経歴
2 詳細情報
2.1 年度別打撃成績
2.2 背番号
2.3 タイトル・表彰
2.4 個人記録
3 エピソード
3.1 野村克也との関係
3.2 選手として
3.3 健康管理
3.4 人物像
3.5 家族
4 著書
5 解説者としての出演番組
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
経歴 [編集]

天理高校から社会人野球チームクラレ岡山を経て、1968年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。翌1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。
1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目の1971年にレギュラー定着。打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。この頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったほどだった[1]。しかし頑固で鳴る門田はこれを一切受け入れず、あくまで長打にこだわった打撃を押し通した。「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。
1979年2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しほぼ1シーズンを棒に振るが、同年9月には代打で登場した。翌1980年に復活。以降、「ホームランなら足に負担がかからない。全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌1981年には44本塁打で初の本塁打王に輝く。
怪我からの復帰後は脚力が大きく衰え、しばしば「ライトゴロ」を記録するほどで、DHとして出場することがほとんどになった。新人時代に強肩ぶりを誇った肩も著しく衰え、打撃以外の守備・走塁のプレーは到底プロレベルとは呼べないもので「ただバットを力一杯振り回すだけの選手」との揶揄の声もあった。珍プレー番組でも「ホームランを打たなければただのおっさん」と表現されたが、ホームランに美学を求める門田自身は「そうですねえ」と納得していた。南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代には石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあったが、その鈍足・弱肩から守備範囲は相当狭くなっていた。だが、88年の球宴では指名打者部門が設置されておらず秋山幸二・平野謙と共にパリーグ外野手部門でファン投票選出され、狭く外野手の守備力の需要が必ずしも高くないナゴヤ球場での第2戦に3番右翼手で先発出場。門田より22歳下のセリーグ先発2番であった立浪和義が門田より17歳下のパリーグ先発投手阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。
しかし打撃は衰えを見せず、1983年も40本塁打で本塁打王。1987年8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。40歳で44本塁打は日本初の快挙。この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。この記録は、2010年42歳を迎える楽天イーグルス山崎武司が更新している。
引退時に本塁打を奪った投手の数が184人は王貞治の183人を抑え、2003年に清原和博に抜かれるまで1位だった。現在もパリーグ記録や同一リーグでの日本プロ野球記録である。
1989年に南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の1992年夏、記者に「オレは老衰」と漏らし、現役引退。引退試合は平和台球場でのプロ野球最終公式戦、3番DHで先発し1回裏近鉄バファローズの野茂英雄投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし3球三振だった(広永益隆のソロホームランで挙げた最少得点を若田部健一・吉永幸一郎のバッテリーが守り抜き完封)。
無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂ったことで、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日、自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。這いつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。2005年に小脳梗塞を発症し30日間入院したが、幸い後遺症が出ることもなく退院した。
2005年まで朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。2006年、野球殿堂入り。7月21日に神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。
2009年現在は大阪にてベンチャー企業の株式会社ヒューマンドリーム、株式会社ホークスドリームの顧問に就任し、起業家の川戸康嗣と共に社会貢献活動に力を注いでいる。同年11月、ホークスドリームと神戸9クルーズが業務提携。これに伴いホークスドリームは神戸9クルーズの2軍という扱いとなり、その監督に就任した。
投稿者 阿波踊り1 23:01 | コメント(0)| トラックバック(0)
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