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金田正一の伝説踊り

金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家、実業家。血液型はB型。
現役時代は日本プロ野球最多となる通算400勝を記録し、引退後はロッテオリオンズ監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。
目次 [非表示]
1 概説
2 経歴
2.1 現役時代
2.2 引退後
3 プレースタイル
3.1 投球
3.2 打撃
4 金田のトレーニング、コンディショニング理論
4.1 コンディション管理
4.2 トレーニング
4.3 食事
5 対戦相手に関する逸話
6 監督時代
7 球界に対するスタンス
8 家族
9 影響
10 詳細情報
10.1 年度別投手成績
10.2 通算打撃成績
10.3 背番号
10.4 タイトル・表彰
10.5 個人記録
10.6 年度別監督成績
11 出演番組
12 CM
13 著書
14 脚注
15 関連項目
16 外部リンク
概説 [編集]

愛称は「カネヤン」、あるいは「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」等。
現役時代は国鉄スワローズ、読売ジャイアンツで活躍し、日本球界唯一の400勝投手となった。引退後はロッテオリオンズの監督を務めた。現在は野球評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会(株式会社日本プロ野球名球会)会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。また、2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。
実弟は元プロ野球選手の金田高義、金田星雄、金田留広。息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。
経歴 [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年11月に貼り付けられました。
1933年、在日韓国人の子として愛知県に生まれる(1959年、日本に帰化)。朝鮮名は金慶弘()。名古屋市立大曾根中学校在学中に野球を始め、亨栄商業進学後、監督の芝茂夫によりその素質を見出された。金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となり、1950年3月に国鉄スワローズ監督西垣徳雄にスカウトされる。
現役時代 [編集]
享栄商業高等学校のエースとして甲子園を目指したが、1950年夏の予選で敗退。その直後、高校を中退してシーズン途中に国鉄スワローズに入団。初登板は8月23日に松山で行われた対広島戦、押し出し四球でサヨナラ負けを喫している。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身がかつて各プロスポーツ関係者から特に手厚い待遇を受けていた「特待生の中の特待生」だったことを明かしている。金田の弁によれば、「中学・高校を通して学費を払った事が一切無い」という経済的援助を受けるほどだった。また、金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、なかばなかったことになってしまったという。
1951年9月5日の対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。
1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日下痢を発症し、決して万全の体調とは言い難い状態で登板しての記録達成であった。しかも、達成直前の9回1死でハーフスイングの判定をめぐって中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共にオール空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際に金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。
1958年4月5日の開幕戦(対巨人、後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。結果、長嶋から4連続三振を奪ったが、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、ものになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と答えた。なお、次の対戦時にも最初の打席で三振を奪い、デビューから対戦5打席連続で三振に仕留めたことになる。ちなみに長嶋の金田との対戦は1964年までの7年間で打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打ったバッターとなっている。次の年は王貞治が入団し、開幕戦(1959年4月11日)で当たるがこちらも2打数2三振を奪っている。
同じ1958年6月5日、通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。さらに6月12日には、開幕よりわずか70日、51試合目で20勝を達成した。いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(ほかに13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64 1/3イニング連続無失点の日本記録もこの間に記録している。
1962年9月5日、メジャーリーグのウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。
1963年6月30日、通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。
1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。対巨人戦通算65勝は歴代1位。ただし、国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている(国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝)。また、対巨人戦の敗戦数は72を数え、勝利数を上回っている。
1965年、B級14年選手制度を行使して読売ジャイアンツに移籍。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社とフジテレビが球団経営に参加した時にさかのぼる。この時の産経・フジのやり方に反発し、国鉄が経営から離れる1965年の移籍につながったと言われている(国鉄は同年5月10日付で産経・フジに球団を売却)。
巨人入団には、監督・川上哲治の、巨人ナインも金田に見習ってほしいという思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した(公式戦の開幕投手も在籍5シーズンの間に4回任されている)。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を生かした川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合でホームランを打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。
1969年10月10日、シーズン最終戦・対中日戦で球界初の通算400勝を達成したのを置き土産に現役を引退した。また、巨人での背番号34は永久欠番に指定された。金田は当初は引退するつもりがなかったが石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原が「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。またCS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったとの事。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだったという。
引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている[1]。
引退後 [編集]
引退後は日本テレビおよびニッポン放送の解説者(1979年ごろ、フジテレビジョン・プロ野球ニュースの解説者としても出演していた)。
1973年から1978年、1990年から1991年にロッテオリオンズ監督。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。また、就任してから千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。選手そして監督を通じて、選手では国鉄時代の完全試合達成、巨人時代の400勝達成、監督ではロッテとしての初の日本一と所属球団でそれぞれ偉業を達成したが、これらは奇しくも全て対中日戦である。
ロッテ監督時代の1978年に日本プロ野球名球会を設立し、2009年12月まで会長・代表幹事を務めていた。1988年、野球殿堂入り。
2008年4月11日 - 13日の巨人対ヤクルト戦は永久欠番シリーズとして「川上哲治/金田正一シリーズ」として開催された。唯一の移籍選手として開催されたが、この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。
金田の球歴を知る現役選手にとっては、現在でも投手に限らず畏れ多い存在と映っている。2008年に金本知憲の2000本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れなかった様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には内海哲也が「カネムラ」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった[2]。
プレースタイル [編集]

投球 [編集]
20年近くの現役生活で球種は速球とカーブ、それに晩年よく投げた超スローボールだけであった。その速球の威力はすさまじく、高校時代には金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際には捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。金田のデビューした年、長野での阪神との試合で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。あと、投手と捕手との間隔が短過ぎる」と審判に苦情をもちこみゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は正確だった。金田本人や当時の選手たちによると「若い頃は間違いなく150km/h台の後半か160km/h台を出していただろう」という。
現役最末期に金田は当時解説者をしていた青田昇のもとを訪ね「青さん。ワシと沢村栄治さんと球どっち速かった?」と尋ねたことがある。青田はその時は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝したが(金田はその答えに憮然としながら去ったという)、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当はカネやんのほうがすごかったかもしれんなぁ」と述懐している。実際、青田は沢村の全盛期の球威は知らず、「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している。
また、剛速球とともにそのカーブを讃える者も多い。有本義明は戦後最高のカーブの使い手として堀内恒夫、江川卓と並んで金田を挙げている。佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と、野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。金田のカーブは大小5種類あったといわれるが、特に2階から落ちると言われた縦のカーブが武器だった。しかし、そのカーブは反面左肘に負担をかけ、毎年のように肘の痛みは金田を苦しめた。入団5年目あたりから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。実際、快調だったシーズンでも梅雨時や秋口頃に1か月くらい勝てない時期がよくあった。そのカーブでも「ものになるのに10年かかった」という。ただ、巨人時代は金田自身の力も落ち、巨人ではバックが安定していることもあり、フォークや小さな速いカーブ(スラーブやカットボール気味のボール)、まれにシュートも投げ、ピンチを技で切り抜けることも多くなった。
金田の大きな特徴は、奪三振が多いことである。1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成したが、これは金田が第1号である(金田より先輩にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志、野口二郎、中尾碩志、藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振に達していなかった)。これは、所属していたスワローズの守備力が弱くて「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いが三振奪取に向かわしめたという。通算400勝とともに4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にあるとおり当時はメジャーリーグの記録をも凌駕していた(後にノーラン・ライアンが更新)。
国鉄時代はその豪快な人柄と圧倒的な野球の実力のため、監督以上に力のある選手だった。先発して大量点を取られたり、審判の判定に不服だと自分から勝手にマウンドを降りてしまうこともあった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。通算400勝中132勝(国鉄時代は353勝中114勝)がリリーフ勝利だったが、この時代のエース級投手はシーズン中、先発・リリーフの別なく酷使されることが珍しくなく、稲尾和久は通算276勝中108勝、秋山登は193勝中89勝、杉浦忠は187勝中75勝がリリーフ勝利である。この他守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。当時捕手の根来広光は後に「金田は機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで述べている。球場についても文句を言い、対巨人戦では狭いことで有名な東京球場で先発してホームランを連発された際は「こんな狭い球場で投げれるか」と叫んだことがある(のちにロッテ監督に就任した際も「あんな狭い球場いらんわい」と言い、これが東京球場閉鎖につながっている)。
金田が入団した当時の国鉄はチーム力が弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦が3度、20敗以上6度、入団以来15年連続で2桁敗戦、通算267敗を喫している。しかし、その弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げている。これはこの間のチーム全体の勝星(833勝)の42%に相当する。またこの間の国鉄は3位が1回あるだけで他のシーズンは全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。
金田の残した通算400勝の記録については、2000年代以降に「今とは時代が違う」という批判が寄せられることもある。浅草キッドの水道橋博士と雑誌で対談した際そのことを指摘された金田は「この小童が!」と激高した。しかし、金田が活躍した1950年代、1960年代頃は先発ローテーションが確立されていなかったが、その分故障しやすくなる中で長年投げ続けていた(この時代の稲尾和久、権藤博、杉浦忠らは金田の最高記録(31勝)を上回る勝利数をあげたシーズンがあるが、いずれも酷使により故障し、金田よりも短い実働年数で引退している。また上記されていたように、金田自身も肘の痛みを抱えながらの現役生活を長く続けた)。この時代の投手でも200勝を記録した人間は数えるほどしかおらず[3]、通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、時代が違うということを差し引いても、金田が稀代の名投手であったことは間違いないと言える。また、その勝利の約90%の353勝は弱小球団であった国鉄時代に挙げている。当時国鉄と並んで弱小球団だった対広島戦を得意としており通算90勝を挙げ、自身の対大洋戦の77勝や、通算勝利数2位の米田哲也の対ロッテ戦の76勝を抑えてダントツ1位であり、また30敗しかしてなく60の貯金を得たのも、山田久志の対南海戦の45の貯金(73勝28敗)を抑えて1位である。
現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがヴィクトル・スタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時はスタルヒンの完封数が84と発表されていたが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し83に訂正されている。結局、金田は82完封で引退することになったが、もし前記の集計ミスが金田の現役中にわかっていればあと1まで迫っていただけにスタルヒンに並ぶかあるいは逆転もあったのでは…とする意見もある[4]。なお、勝星を稼ぐために中継ぎ転向をしてはどうかというアドバイスもあったがこの記録の更新のために先発にこだわり続けたという。その82完封のうち1/4以上の23試合は1-0のスコアであった(なお、既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である)。また0-1の完投敗戦が21あり、どちらも史上1位である。なお、1-0での完封勝ちはすべて国鉄時代に記録し、0-1の完投敗戦も巨人移籍後は1試合あっただけである。
前述の通り先発だけでなくリリーフもやっていたおかげで、よくサヨナラホームランを打たれることもあり、通算12本は歴代トップである(2位は稲尾和久の10本)。国鉄の対戦5球団すべてに打たれていて、最初の1本目は苦手にしていた阪神の吉田義男で、最後の12本目は巨人の長嶋茂雄だった。なお、12本はすべて国鉄時代に記録されたものである。
また、3年目の1952年には8月9日の対巨人戦で、延長13回裏無死一・三塁から敬遠として投げた1球目が大きくそれてサヨナラ負けを喫したことがある。「敬遠球を暴投してのサヨナラ負け」は、30年後の1982年に阪神の小林繁が記録するまでプロ野球史上唯一の記録であった。
打撃 [編集]
金田は打撃も優れていた。投手として出場して36本塁打は史上1位。他に2本の代打本塁打を記録しており、選手としての通算本塁打は38本である。また、入団11年連続で本塁打を記録した。また、7度敬遠されている。2リーグ制以後の選手としては、野手転向した選手を除くと、投手として唯一1000試合出場を達成している(1リーグ制時代を含むと野口二郎(517試合登板で237勝、野手や代打を含め1098試合出場)がいるほか、藤村富美男も投手として一定の実績があるため)。打者としても一流だった金田が一番凄いと思った投手は権藤正利で、彼のカーブは凄かったと語っている。
投稿者 阿波踊り1 23:04 | コメント(0)| トラックバック(0)
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