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阿波踊り 阿波踊り

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├─≠ョ─ヵラスと井上謙

├─≠ョ─ヵラス スパイク
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 熊田康則、川合俊一と共に「バレーボール界のビッグ3」と言われ、日本バレーボール界をリード、笑顔が可愛いと女性からの人気も高かった。
投稿者 阿波踊り1 19:28 | コメント(0)| トラックバック(0)

├─≠ョ─ヵラスと角田誠

├─≠ョ─ヵラス 最終メンバー
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 京都パープルサンガユースから京都パープルサンガに入団。
投稿者 阿波踊り1 03:51 | コメント(0)| トラックバック(0)

山本浩二の踊り

山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(外野手)・プロ野球監督。本名及び旧登録名は「山本 浩司」(1974年まで)。
現役時代は広島東洋カープで長きに渡って活躍した。「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれ、引退後も広島監督を2度務めた。北京オリンピック野球日本代表守備走塁コーチ。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ時代
2 引退後・監督時代
2.1 人脈・交友関係
3 年度別打撃成績
4 背番号
5 タイトル・表彰・記録
5.1 タイトル
5.2 表彰
5.3 記録
6 監督としてのチーム成績
7 監督通算成績
8 レコード
9 著書
10 CM
11 関連項目
経歴 [編集]

プロ入り前 [編集]
広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区五日市町)出身。子供の頃、当時の広島カープの本拠地・広島県営球場に、父に連れられて太田川対岸から渡し船で何度も通い、この時代の広島の主力、エースピッチャー・長谷川良平、四番・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、これらを全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだ。
16歳の時、自分自身の力で甲子園へ行くため、また大学進学を視野に入れた家族の意向もあって、野球では全くの無名だった広島県立廿日市高等学校へと進学、入学入部と同時にエース・四番となる(県内の同期には高橋一三、小川邦和らがいる)。3年時には主将として広島県予選を勝ち抜き、もう少しで甲子園に手が届く所まで勝ち進んだが、準決勝で広陵高等学校に17安打を打たれ涙を飲んだ。
しかし、その評判を人伝に聞いた南海ホークスの鶴岡一人監督の目に留まる。鶴岡は「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧め、それを受けて1965年、高校卒業と同時に法政大学に入学した。鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている。
大学進学後、投手として野球部に入部したが、1年生部員だけで50人いた当時の法大では台頭できず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った田淵幸一と違い、富田勝、桑原秀範らと共に一般部員の立場に甘んじていた。2年時、山中正竹の入部をきっかけに外野にコンバートされ、松永怜一監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花、2年生にしてクリーンナップに抜擢される。やがて山本は、田淵、富田と共に「法大三羽ガラス」の異名を取り、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となっていった。リーグ通算65試合出場、229打数67安打、打率.293、8本塁打、30打点。ベストナイン2回。
なお、法大では文学部英文学科で学んだが、卒業はしていない。そのため、プロフィールには法政大学「卒」ではなく「出」と記載されている。
プロ時代 [編集]
1969年、ドラフト1位で地元広島カープに入団。入団当初の背番号は27だったが、山内一弘引退後、背番号8を譲り受けた。
長らく中距離打者として脇を固めていたが、根本陸夫、上田利治、関根潤三、広岡達朗ら指導者にも恵まれ、長距離バッターとして開眼。1975年には4番に就く。この年のオールスターゲーム第1戦、セ・リーグの3番として4番王貞治、5番田淵幸一とクリーンアップを組み、6番に入った衣笠祥雄とともに二打席連続アベックホームランを放った。このアベックホーマーは、オールスターの名場面としてよく紹介される。その勢いに乗り同年、自身初のシーズン打率3割とシーズン30本塁打を記録した。また、首位打者を中日の井上弘昭と最後まで争い、広島と中日の最終戦で打率首位の自身は欠場して、古葉竹識監督が井上を満塁でも敬遠して打率首位を守り、首位打者を獲得した。チーム初優勝に大きく貢献すると共に、MVPにも輝いた。優勝を決めた10月15日の巨人戦(後楽園)では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として「ミスター赤ヘル」の二つ名を送られた。
しかし本格的に才能が開花するのは30代になってからであった。1977年から5年連続40本塁打を記録。この記録を持つのは王貞治と山本のみである。1978年、1980年、1981年、1983年と4度の本塁打王に輝き、打点王も3度獲得した。また、強肩巧守のセンターとしても鳴らし、1972年から1981年までゴールデングラブ賞を10年連続で受賞。通算10回受賞はセ・リーグの外野手としては歴代最多である。外野手として残した通算4637刺殺、通算154補殺、通算4830守備機会は、それぞれセ・リーグ記録であり、日本プロ野球歴代でも2位に位置する。1975年には302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立しており、守備機会の多さの割りに通算失策数も39と少なく、技術の高い捕球や正確無比な送球で知られた。足も速く、11年連続でシーズン2桁盗塁を記録しており、通算でも231個の盗塁を記録している。このように走攻守の三拍子揃った選手として、衣笠祥雄、三村敏之、水谷実雄らと共に広島黄金時代を築いた。
1983年よりレフトにコンバート。同年4月30日の阪神戦(甲子園)ではサイクルヒットを記録した。1984年より打撃コーチを兼任し、その年はタイトルを逃したものの好成績を残して日本一に貢献し、王貞治を抜いて当時の球界最高額となる年俸8500万円で契約した。1985年には史上2人目の通算500本塁打・200盗塁を達成(この記録を持つのは張本勲、山本、衣笠の3人のみ)。
1986年、リーグ優勝を花道に、40歳で現役を引退した。この年、チームは130試合制の129試合目にリーグ優勝を決め、日本シリーズも第8戦まで行ったため、日本シリーズ第8戦が事実上の引退試合となった。試合には敗れ、西武に優勝を譲ったが、広島ナインから惜別の胴上げを受け広島市民球場は万来の浩二コールに包まれた。翌日の引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた。
名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。引退した1986年にも打率.276をマークし、27本の本塁打を放つなど、余力を持っての引退であった。また、大学出身者での通算536本塁打は日本最多記録である。7度にわたる打点・本塁打のタイトルはいずれも30歳以降であり、通算本塁打の7割をやはり30代以降で放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、背番号「8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。
引退後・監督時代 [編集]

引退後はNHKの野球解説者を務め、1989年、監督に就任する。1989年、1990年はリーグ2位、1991年にはリーグ優勝を果たした。1992年も4位ではあったが、まれにみる混戦状態の中、最後まで優勝争いに加わり続けた。しかし、1993年には現役時代の1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、その責任をとる形で辞任した。
その後、日本テレビの解説者をしていたが、球団の要請で2001年再び広島監督に就任。在任中に一度もチームをAクラスに導くことなく2005年、成績不振により2度目の辞任。監督としての在任期間(第1期・第2期合わせて)は10年間で、古葉竹識監督、白石勝巳監督の11年に次ぐ長期政権となった。
監督時代、第一期政権時代には前田智徳や緒方孝市、江藤智など、第二期政権時代には新井貴浩(現阪神)や嶋重宣、栗原健太を打線の主力として育成した。
2006年より、日本テレビ、広島テレビ解説者に復帰。また2007年、星野仙一監督の下、北京オリンピック野球代表チームの守備走塁コーチに就任し結果は4位で終わった。
2008年、野球殿堂入り。 2010年、プロ野球名球会の副会長に就任する。
人脈・交友関係 [編集]
大学時代の同級生、田淵幸一・星野仙一とは親友である。ちなみに、1989年に山本がカープの監督に就任した際、当時中日ドラゴンズの監督だった星野は「浩二、お前とは絶交だ!」と発言した。
投稿者 阿波踊り1 21:00 | コメント(0)| トラックバック(0)

石井琢朗の踊り

石井 琢朗(いしい たくろう、本名:石井 忠徳(いしい ただのり)、1970年8月25日 - )は、広島東洋カープに所属するプロ野球選手(内野手)。栃木県佐野市出身。
プロ入り当時は投手だったが、野手に転向後は俊足を生かし、過去4度の盗塁王を獲得した。日本プロ野球での遊撃手最多試合出場記録保持者。
目次 [非表示]
1 経歴
2 人物
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 年度別打撃成績
3.3 年度別守備成績
3.4 背番号
3.5 タイトル・表彰
3.6 個人記録
4 脚注
5 関連項目
6 外部リンク
経歴 [編集]

小学校3年生から野球を始める。高校は栃木県立足利工業高校に在学。2年時に夏の甲子園に投手として出場。1988年、スカウトの江尻亮に見出されドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団した。入団当初は投手としてプレー、1年目の4月13日、広島東洋カープ戦で一軍初出場。この年には初安打を放ち、同じく高卒ルーキーだった谷繁元信とバッテリーを組んだ試合で初勝利を記録した。石井は3年目の1991年まで投手としてプレーし、3年間で1勝4敗、防御率5.69、23奪三振を記録した。
翌年の1992年から内野手に転向し、同時に登録名を石井琢朗に変更。シーズン後半には、転向1年目にして清水義之から三塁手の定位置を奪った。1993年にチーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を0に変更。2番・三塁手として完全定着。盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得した。1994年には背番号を5に変更した。1995年はオールスターゲーム初出場。オールスターにはその後、1997年から5年連続出場することになった。1996年は新監督に就任した大矢明彦の内野コンバートにより、進藤達哉との入れ替えで三塁手から遊撃手に転向した。1997年は波留敏夫と入れ替わりで2番打者から1番に定着。守備ではベストナイン遊撃手部門獲得。2001年まで5年連続で獲得する事になる。1998年はマシンガン打線の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。ペナントレースでは、初の最多安打と2度目の盗塁王を獲得し、4度目のゴールデングラブ賞を受賞。同年の日本シリーズでは優秀選手に選ばれた。103得点で松井秀喜と並んで最多得点を獲得(これは球団創設49年目にして球団初)。1999年には通算1000本安打・1000試合達成・200盗塁達成。7月22日の対ヤクルトスワローズ戦で、1試合最多得点のセ・リーグ新記録となる6得点を記録、自身初の一試合2本塁打も記録した。2000年は盗塁王とベストナイン遊撃手部門を3年連続で獲得、2001年には2度目の最多安打を記録した。
2002年は140試合に出場したものの打率は8年ぶりに2割8分を下回った。2003年はさらに不調に陥り1992年以来の100安打未満を記録、打率.231は野手転向後では最悪の数字となり、レギュラー定着後初の2軍落ちも記録した。しかし、翌年の2004年は復活を果たし2001年と同じ.295の成績を残し、3度目の2桁本塁打も達成した。だが2005年は全146試合に1番ショートでスタメン起用され、フルイニング出場を果たしたものの、打率は.255と再び低迷した。
2006年は5月11日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦で、第1打席に愛敬尚史投手から中前安打を放ち史上34人目の2000本安打達成。名球会入りした。投手として勝ち星を挙げた選手としては川上哲治以来史上2人目の達成となった。またドラフト外での入団選手としては秋山幸二以来2人目だった。なお、前日の試合では、延長11回の裏に2死満塁、ヒットを打てばサヨナラ安打で2000本安打の場面で打席が回ってきたが、結果は押し出し四球だった。記録達成の際には、「投手時代の(打者として打ったヒット)3本はカウントして欲しくない」とコメントした。その後、8月12日の対ヤクルト戦で、石川雅規から安打を放ち松原誠の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。この年は打順こそ2番3番に回った試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニング出場を果たす。最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せ再び復調を果たした。
2007年は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢明彦は石井を無理せず休ませると公言。4月1日の巨人戦の6回の守備で石川雄洋と交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手では金本知憲に続く2位の339試合で途切れた。9月5日に阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース戦にて、1回表の第一打席で右手首に死球を受け、そのまま退場。翌日横浜に戻り、診察の結果骨折と判明し戦列を離れた。シーズン中の復帰は困難とも思われたが、9月中に戦列復帰を果たした。シーズン100安打は目前だったものの、結局2007年の安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成とはならなかった。また、仁志敏久が1番に入ったことで石井の1番での出場は激減。主に2番を打つことが多かった。
2008年は開幕戦から再び1番で起用されたが、成績が芳しくなかったため5月頃からは7~9番で起用されることが多くなった。夏場以降は若手起用の方針もありスタメンでの出場が激減し、シーズン終了間近に球団から戦力外通告を受けた[1]。その後現役続行を希望して日本国内外を問わずに移籍先を探していたが、11月12日に広島東洋カープが石井の獲得を発表した[2]。
2008年11月29日、自費で横浜スタジアムを貸し切り、ファンへの感謝を表すイベントを開催した。主催者発表によるとファン3500人が参加し、オークションではユニフォームが20万円以上の値で落札された。また本人は「これを区切りにして、広島で優勝できるよう頑張りたい」とコメントした。
広島1年目の2009年は開幕一軍でスタート。本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる[2]。2009年7月4日、対横浜7回戦にて、慣れ親しんだ横浜スタジアムで通算100本塁打達成。2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録[3](従来の記録は東映・毒島章一の1773試合。またプロ在籍年数ではヤクルト・八重樫幸雄と並ぶ21年目で、最遅タイ)。2009年7月17日の対横浜戦に遊撃手として先発出場し、遊撃としての出場が通算1731試合となり、吉田義男(阪神)を抜き日本歴代最多となった。シーズン前半は梵英心、後半は小窪哲也と併用され、出場機会と打撃成績は前年を下回ったが、本拠地の内野が天然芝の広島でも堅実な守備は健在で一年を通して一軍でプレーした。 2010年7月4日の対横浜戦(マツダスタジアム)の2回裏に落合博満を抜くプロ野球歴代単独10位となる2372安打を打った[4]。
人物 [編集]

登録名の琢朗は野手に転向する際に大成する字画を高校の先輩が考えて付けたもの。字画を整えるため本来は正字の琢(旁部分に点が打たれている)を使うのが正しいが、パソコン等で表示されないため新字で代用されることが多い。2006年の正月、当時のチームメイトだった古木克明から「石井豚朗」と書き間違えた年賀状を送られたという。また過去には、打席に立ったときに野次を飛ばすファンからわざと「豚朗」と叫ばれ、ずっと叫び続けられたことに怒りが収まらず三振を喫したこともある。なお、母からは「たーちゃん」と呼ばれている。1997年には同姓の石井義人がベイスターズに入団してきたため背ネーム表記がT.ISHII、報道やスコアボードでの表記が石井琢、アナウンスがフルネームとなり名前もよく知られるようになった。2003年には石井義人が移籍したため報道などでは「石井」表記に戻ったが、その他はそのままとしていた(2002年には石井浩郎もベイスターズに所属)。これはカープ移籍後も続いている。ただし入団会見時は背ネーム表記が「ISHII」だった。
ヒット1本につき1万円を積み立て、シーズン後に福祉関連先に寄付したり、横浜市内のこども医療センターに絵本を毎月寄贈したり、横浜スタジアムの石井琢朗シートを市社会福祉協議会へ寄付したりするなど、チャリティー活動にも積極的である。
2008年3月9日付朝日新聞に、出身地である栃木県佐野市の佐野松陽高校の生徒がいもフライをつかって町おこしに取り組んでるとの記事が紹介された。これに石井本人も一役買おうと意気込み、球団に働きかけた結果横浜スタジアム内レストランにて5月14日より販売が実現した。シーズン終了後にこのいもフライの売上金の一部が佐野市に寄付された。広島に移籍後の2009年にはMAZDA Zoom-Zoom スタジアムの売店にて石井琢朗プロデュースとして販売され人気を博している。
ベイスターズ時代の応援歌は親しみやすく、ファンの間でも人気が高かった。カープへの移籍後も広島の応援団が引き続き使用している。移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られた。広島へ移籍後、横浜スタジアムでの対横浜戦にて通算100号本塁打を達成したが、この時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。
1996年にアイドルグループCoCoの元メンバー瀬能あづさと結婚したが、2000年に離婚。その後元フジテレビアナウンサーの荒瀬詩織と再婚し、2002年7月に長女が、2005年8月に二女が誕生した。前妻瀬能との間に子供はいない。
道具を大切に扱う選手として有名である(ミズノとアドバイザリー契約)。また、酒はあまり強くない。
自身初の米子上陸をブログにて報告しており、青森と島根の未踏2県を訪れれば全国制覇となるようである。
投稿者 阿波踊り1 20:59 | コメント(0)| トラックバック(0)

トーキョースパムCHANNKOSUMOと松原誠

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トーキョースパムCHANNKOSUMO 今命名しました。

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トーキョースパムCHANNKOSUMO なってきました

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トーキョースパムCHANNKOSUMO 吉とでるか

トーキョースパムCHANNKOSUMO 凶とでるか

トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう

トーキョースパムCHANNKOSUMO とりあえず貼ろう
投稿者 阿波踊り1 20:58 | コメント(0)| トラックバック(0)

├─≠ョ─ヵラスとスピッツ

├─≠ョ─ヵラス ロビンソン
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 都内のライブハウスを中心に活動し、1991年にポリドールよりメジャーデビュー
投稿者 阿波踊り1 21:51 | コメント(0)| トラックバック(0)

├─≠ョ─ヵラスと竹内まりや

├─≠ョ─ヵラス 山下達郎
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 竹内 まりや(たけうち まりや、1955年3月20日 - )は、島根県出雲市大社町出身のシンガーソングライター。自称「シンガーソング専業主婦」。本名、山下 まりや(旧姓:竹内)。夫は山下達郎で一女がいる。デビューがアイドル不在の時期と重なったため、当初はアイドル歌手のような役割を担わされた[要出典]。血液型はA型。
目次 [非表示]
1 略歴
2 コンサート
3 エピソード
4 ディスコグラフィー
4.1 シングル
4.2 アルバム
4.3 その他のアルバム
4.4 参加作品
5 タイアップ
6 楽曲提供
7 出演
7.1 ラジオ
7.2 テレビ
7.3 CM
8 関連人物
9 脚注
10 外部リンク
略歴 [編集]

元大社町長で出雲大社近くの老舗温泉旅館「竹野屋」主人・竹内繁蔵の娘。世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられる。島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州ロックフォールズ(Rock Falls)高校に1年間留学。この留学は、AFS(高校生の交換留学団体)の交換留学制度で行ったものである[1]。
慶應義塾大学文学部に進学する。在学中に音楽活動(杉真理の所属する「ピープル」旧リアル・マッコイズ)を始める。このサークルで竹内は鈴木慶一の従妹の宮悦子、現在は料亭で女将業の中山ゆき子らとともにバックコーラスグループもやっていた。このサークルは第8回ポプコン関東・甲信越大会(1974年9月7日中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で参加しているが、同大会には別グループとして佐野元春(バックレイン元春セクション)、庄野真代、桐ヶ谷仁(フェードイン。現在は松任谷正隆の経営する音楽学校講師)も参加していた。1978年にシングル『戻っておいで・私の時間』、アルバム『BEGINNING』でデビュー。大学では英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり中退。のち、1979年のシングル『SEPTEMBER』、1980年のシングル『不思議なピーチパイ』などがヒットする。デビュー当初は、安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供するアイドルソング的な曲を歌っていたが、これに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになった。
この頃アレンジャーとして彼女の前に登場したのが、後に公私共に良きパートナーとなる山下達郎である。もっとも、デビュー以前からまりやはシュガー・ベイブや達郎のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た達郎のライブには大きなインパクトを受けたという。
竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾(濱田金吾)といった作家が提供している。
1981年、彼女のルックスによるアイドル的な活動を要求されることと自身の希望する活動とのギャップから一時休業を宣言。その後1982年に山下達郎と結婚。同時に専業作詞作曲家として活動を開始し、河合奈保子の『けんかをやめて』などのヒットを放つ。しかし、1982年に山下達郎が自身のレコード会社ALFA MOONを設立したことから「記念に一枚」のつもりで、1984年にシングル『もう一度』、そして全曲を彼女自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース[2]し、最終的には30万枚以上の大ヒットになった。
その後は育児との両立が難しいこともあり、ライブ活動からは退いたものの、アレンジャー・プロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続け、3年間のロングセールスを記録したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル『駅』(1987年)、シングル『シングル・アゲイン』(1989年)、シングル『告白』(1990年)、シングル『家(うち)に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)』(1992年)などのヒット作をリリース。1992年にはアルバム『Quiet Life』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベストアルバム『Impressions』は売り上げ300万枚を超える大ヒットを記録。
作詞・作曲家としては薬師丸ひろ子の『元気を出して』(1984年[3])、中山美穂の『色・ホワイトブレンド』(1986年)、広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』(1997年)など、多くのヒット作を生んだ。
90年代初め、中国系の歌手・林羽萍(Lín Yŭpíng,英語名 Jessica)がアルバム『久別重逢』の中で『元気を出して』を『清醒之後』としてカバーしている。中国詞は「王中言」で、作曲者は本来「竹内まりや」とすべきところが「熊天龍」という全く違う名前になっている。
2000年7月、約18年ぶりの本格的なライブ(それ以前にも縁故のあるミュージシャンのライブのサプライズゲストに登場し数曲洋楽カヴァーを歌うことはあった)を東京・大阪で行う(ライブ・アルバム『SouvenirMariya Takeuchi Live』収録)。その後もアルバム『Bon Appetit!』(2001年)、カヴァーアルバム『Longtime Favorites』(2003年)などをリリース。2004年には夫のシングル『忘れないで』の作詞を担当など、マイペースながらも着実に活動を続けている。子育てや夫・達郎の作品制作が一段落したことから2006年からリリースを積極的に行うようになり、2007年には6年ぶりにオリジナルアルバム『Denim』を発表。『Denim』はオリコンチャート1位入りを果たし、現在でも根強い人気を保っていることを証明した。
楽曲は、OLの何気ない日常に焦点を当てた歌などが多いが、本人がやや自嘲気味に言っているように不倫を題材にした曲も多い[4]。竹内の作品でこの不倫ソング路線が本格的に現れたのは、中森明菜の1986年のアルバム『CRIMSON』のテーマに沿う形で提供した楽曲群においてだったが、提供した5曲中2曲をアルバム『REQUEST』で竹内がセルフカバーした(さらにもう1曲のセルフカバーが『Denim』の初回特典CDに収録されている)。これらが高評価を得たことによって、竹内自身のパブリックイメージのひとつとして定着した。
シングル「チャンスの前髪」にはサザンオールスターズの原由子がゲストボーカルとして参加している。
2008年9月、竹内の曲のみが使われるジュークボックス・ミュージカル『本気でオンリーユー』が初演された。
デビュー30年を迎える2008年10月1日に、今までの発表曲を集大成したCD3枚組(初回のみボーナスディスク入りの4枚組)のベストアルバム『Expressions』が発売された。このベストアルバムの選曲にあたり、公式HPにて楽曲のファン投票を行い、NHK「SONGS」1周年記念特番にて発表した[5]。
2008年9月29日から放送が開始された、竹内の故郷である島根県を舞台としたNHK連続テレビ小説『だんだん』では、主題歌とナレーションを担当している。その縁で、Mr.Childrenと同様に2008年の紅白歌合戦に初登場するかと思われたが、「生放送での歌唱に難色を示した」という理由で出演は叶わなかった。
2008年10月23日には、東京国際フォーラムで開かれた作・編曲家林哲司氏の活動35周年記念のコンサートにサプライズゲストとして登場し、同氏が手がけた『September』『象牙海岸』の2曲を生披露した。
2008年12月28日、大阪フェスティバルホールで開かれた山下達郎のフェスティバルホール最後の公演に、「私も、フェスティバルホールにさよならをさせて欲しい。」との意向でアンコールのサプライズゲストとして出演。『人生の扉』 『September』を披露。またダブルアンコールで『LET IT BE ME』(山下達郎とのデュエット)も披露した。
2009年4月17日、山下達郎のコンサートツアー東京最終公演(追加公演を除く)にあたる中野サンプラザホールの公演にも、アンコールのサプライズゲストとして出演。『September』を披露し、残り2曲のコーラス隊にも参加した。このコンサートに、ドラマ「だんだん」の縁から三倉茉奈・三倉佳奈やシジミジルのメンバー達を招待していた。
コンサート [編集]

2000年に『TOKYO-FM&fm-osaka開局30周年記念イベント』が、日本武道館(7月11日・12日)と大阪城ホール(7月31日)にて開催され、cannaとSing Like Talkingと共に竹内本人も出演し、約18年振りに本格的なコンサートを開催した。公演は3番目のトリとして出演。約1時間半の公演時間で、14曲を熱唱した。山下達郎もバックメンバーとして参加し[6]、最後には二人のデュエット曲「LET IT BE ME」も披露している。この模様は「Souvenir~Mariya Takeuchi Live」としてアルバム化された。
これ以降も、2007年10月13日に開催された、コブクロなどが出演した野外ライブ「風に吹かれて」で、シークレットゲストとしてサプライズ登場し、「元気を出して」を、松たか子などの出演者と共に披露し[7]、また、松たか子のコンサートのサプライズゲストで持ち歌を披露する等、必ずしもライブに否定的ではなく、またまりや本人も2009年以降のライブ活動に対して意欲を見せていた(2008年11月27日NHK「ラジオ深夜便」でのインタビューにて)。また2008年12月5日に厚木市民文化会館で行われた、夫・山下達郎のコンサートで、「まりやのコンサートもこのメンバーでやる」との発言があり、ライブへの本格復帰が期待されていたが、2010年8月29日にゲスト出演した「山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック」と公式サイトにおいて、10年振りの本格的なライブである「souvenir again」を12月3・4日に日本武道館で、12月21・22日に大阪城ホールで開催する事を発表した。
エピソード [編集]

基本的に竹内がライブをやらない理由は、「子育てや家庭を優先するため、やらなかった」と明言しており、夫・山下による規制や遠慮ではなかった。以前インタビューで、「達郎が『ライブは、やるな』と言っているとか、『達郎に遠慮している』とか言われているけど、私がライブをやりたくなったら、達郎がなんと言おうと、私はやるって! 本当にやりたくないから、今はやらないだけ」と答えている。
投稿者 阿波踊り1 19:36 | コメント(0)| トラックバック(0)

金田正一の伝説踊り

金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家、実業家。血液型はB型。
現役時代は日本プロ野球最多となる通算400勝を記録し、引退後はロッテオリオンズ監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。
目次 [非表示]
1 概説
2 経歴
2.1 現役時代
2.2 引退後
3 プレースタイル
3.1 投球
3.2 打撃
4 金田のトレーニング、コンディショニング理論
4.1 コンディション管理
4.2 トレーニング
4.3 食事
5 対戦相手に関する逸話
6 監督時代
7 球界に対するスタンス
8 家族
9 影響
10 詳細情報
10.1 年度別投手成績
10.2 通算打撃成績
10.3 背番号
10.4 タイトル・表彰
10.5 個人記録
10.6 年度別監督成績
11 出演番組
12 CM
13 著書
14 脚注
15 関連項目
16 外部リンク
概説 [編集]

愛称は「カネヤン」、あるいは「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」等。
現役時代は国鉄スワローズ、読売ジャイアンツで活躍し、日本球界唯一の400勝投手となった。引退後はロッテオリオンズの監督を務めた。現在は野球評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会(株式会社日本プロ野球名球会)会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。また、2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。
実弟は元プロ野球選手の金田高義、金田星雄、金田留広。息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。
経歴 [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年11月に貼り付けられました。
1933年、在日韓国人の子として愛知県に生まれる(1959年、日本に帰化)。朝鮮名は金慶弘()。名古屋市立大曾根中学校在学中に野球を始め、亨栄商業進学後、監督の芝茂夫によりその素質を見出された。金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となり、1950年3月に国鉄スワローズ監督西垣徳雄にスカウトされる。
現役時代 [編集]
享栄商業高等学校のエースとして甲子園を目指したが、1950年夏の予選で敗退。その直後、高校を中退してシーズン途中に国鉄スワローズに入団。初登板は8月23日に松山で行われた対広島戦、押し出し四球でサヨナラ負けを喫している。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身がかつて各プロスポーツ関係者から特に手厚い待遇を受けていた「特待生の中の特待生」だったことを明かしている。金田の弁によれば、「中学・高校を通して学費を払った事が一切無い」という経済的援助を受けるほどだった。また、金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、なかばなかったことになってしまったという。
1951年9月5日の対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。
1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日下痢を発症し、決して万全の体調とは言い難い状態で登板しての記録達成であった。しかも、達成直前の9回1死でハーフスイングの判定をめぐって中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共にオール空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際に金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。
1958年4月5日の開幕戦(対巨人、後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。結果、長嶋から4連続三振を奪ったが、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、ものになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と答えた。なお、次の対戦時にも最初の打席で三振を奪い、デビューから対戦5打席連続で三振に仕留めたことになる。ちなみに長嶋の金田との対戦は1964年までの7年間で打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打ったバッターとなっている。次の年は王貞治が入団し、開幕戦(1959年4月11日)で当たるがこちらも2打数2三振を奪っている。
同じ1958年6月5日、通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。さらに6月12日には、開幕よりわずか70日、51試合目で20勝を達成した。いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(ほかに13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64 1/3イニング連続無失点の日本記録もこの間に記録している。
1962年9月5日、メジャーリーグのウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。
1963年6月30日、通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。
1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。対巨人戦通算65勝は歴代1位。ただし、国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている(国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝)。また、対巨人戦の敗戦数は72を数え、勝利数を上回っている。
1965年、B級14年選手制度を行使して読売ジャイアンツに移籍。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社とフジテレビが球団経営に参加した時にさかのぼる。この時の産経・フジのやり方に反発し、国鉄が経営から離れる1965年の移籍につながったと言われている(国鉄は同年5月10日付で産経・フジに球団を売却)。
巨人入団には、監督・川上哲治の、巨人ナインも金田に見習ってほしいという思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した(公式戦の開幕投手も在籍5シーズンの間に4回任されている)。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を生かした川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合でホームランを打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。
1969年10月10日、シーズン最終戦・対中日戦で球界初の通算400勝を達成したのを置き土産に現役を引退した。また、巨人での背番号34は永久欠番に指定された。金田は当初は引退するつもりがなかったが石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原が「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。またCS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったとの事。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだったという。
引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている[1]。
引退後 [編集]
引退後は日本テレビおよびニッポン放送の解説者(1979年ごろ、フジテレビジョン・プロ野球ニュースの解説者としても出演していた)。
1973年から1978年、1990年から1991年にロッテオリオンズ監督。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。また、就任してから千葉ロッテになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。選手そして監督を通じて、選手では国鉄時代の完全試合達成、巨人時代の400勝達成、監督ではロッテとしての初の日本一と所属球団でそれぞれ偉業を達成したが、これらは奇しくも全て対中日戦である。
ロッテ監督時代の1978年に日本プロ野球名球会を設立し、2009年12月まで会長・代表幹事を務めていた。1988年、野球殿堂入り。
2008年4月11日 - 13日の巨人対ヤクルト戦は永久欠番シリーズとして「川上哲治/金田正一シリーズ」として開催された。唯一の移籍選手として開催されたが、この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。
金田の球歴を知る現役選手にとっては、現在でも投手に限らず畏れ多い存在と映っている。2008年に金本知憲の2000本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れなかった様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には内海哲也が「カネムラ」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった[2]。
プレースタイル [編集]

投球 [編集]
20年近くの現役生活で球種は速球とカーブ、それに晩年よく投げた超スローボールだけであった。その速球の威力はすさまじく、高校時代には金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際には捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。金田のデビューした年、長野での阪神との試合で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。あと、投手と捕手との間隔が短過ぎる」と審判に苦情をもちこみゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は正確だった。金田本人や当時の選手たちによると「若い頃は間違いなく150km/h台の後半か160km/h台を出していただろう」という。
現役最末期に金田は当時解説者をしていた青田昇のもとを訪ね「青さん。ワシと沢村栄治さんと球どっち速かった?」と尋ねたことがある。青田はその時は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝したが(金田はその答えに憮然としながら去ったという)、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当はカネやんのほうがすごかったかもしれんなぁ」と述懐している。実際、青田は沢村の全盛期の球威は知らず、「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している。
また、剛速球とともにそのカーブを讃える者も多い。有本義明は戦後最高のカーブの使い手として堀内恒夫、江川卓と並んで金田を挙げている。佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と、野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。金田のカーブは大小5種類あったといわれるが、特に2階から落ちると言われた縦のカーブが武器だった。しかし、そのカーブは反面左肘に負担をかけ、毎年のように肘の痛みは金田を苦しめた。入団5年目あたりから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。実際、快調だったシーズンでも梅雨時や秋口頃に1か月くらい勝てない時期がよくあった。そのカーブでも「ものになるのに10年かかった」という。ただ、巨人時代は金田自身の力も落ち、巨人ではバックが安定していることもあり、フォークや小さな速いカーブ(スラーブやカットボール気味のボール)、まれにシュートも投げ、ピンチを技で切り抜けることも多くなった。
金田の大きな特徴は、奪三振が多いことである。1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成したが、これは金田が第1号である(金田より先輩にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志、野口二郎、中尾碩志、藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振に達していなかった)。これは、所属していたスワローズの守備力が弱くて「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いが三振奪取に向かわしめたという。通算400勝とともに4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にあるとおり当時はメジャーリーグの記録をも凌駕していた(後にノーラン・ライアンが更新)。
国鉄時代はその豪快な人柄と圧倒的な野球の実力のため、監督以上に力のある選手だった。先発して大量点を取られたり、審判の判定に不服だと自分から勝手にマウンドを降りてしまうこともあった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。通算400勝中132勝(国鉄時代は353勝中114勝)がリリーフ勝利だったが、この時代のエース級投手はシーズン中、先発・リリーフの別なく酷使されることが珍しくなく、稲尾和久は通算276勝中108勝、秋山登は193勝中89勝、杉浦忠は187勝中75勝がリリーフ勝利である。この他守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。当時捕手の根来広光は後に「金田は機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで述べている。球場についても文句を言い、対巨人戦では狭いことで有名な東京球場で先発してホームランを連発された際は「こんな狭い球場で投げれるか」と叫んだことがある(のちにロッテ監督に就任した際も「あんな狭い球場いらんわい」と言い、これが東京球場閉鎖につながっている)。
金田が入団した当時の国鉄はチーム力が弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦が3度、20敗以上6度、入団以来15年連続で2桁敗戦、通算267敗を喫している。しかし、その弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げている。これはこの間のチーム全体の勝星(833勝)の42%に相当する。またこの間の国鉄は3位が1回あるだけで他のシーズンは全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。
金田の残した通算400勝の記録については、2000年代以降に「今とは時代が違う」という批判が寄せられることもある。浅草キッドの水道橋博士と雑誌で対談した際そのことを指摘された金田は「この小童が!」と激高した。しかし、金田が活躍した1950年代、1960年代頃は先発ローテーションが確立されていなかったが、その分故障しやすくなる中で長年投げ続けていた(この時代の稲尾和久、権藤博、杉浦忠らは金田の最高記録(31勝)を上回る勝利数をあげたシーズンがあるが、いずれも酷使により故障し、金田よりも短い実働年数で引退している。また上記されていたように、金田自身も肘の痛みを抱えながらの現役生活を長く続けた)。この時代の投手でも200勝を記録した人間は数えるほどしかおらず[3]、通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、時代が違うということを差し引いても、金田が稀代の名投手であったことは間違いないと言える。また、その勝利の約90%の353勝は弱小球団であった国鉄時代に挙げている。当時国鉄と並んで弱小球団だった対広島戦を得意としており通算90勝を挙げ、自身の対大洋戦の77勝や、通算勝利数2位の米田哲也の対ロッテ戦の76勝を抑えてダントツ1位であり、また30敗しかしてなく60の貯金を得たのも、山田久志の対南海戦の45の貯金(73勝28敗)を抑えて1位である。
現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがヴィクトル・スタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時はスタルヒンの完封数が84と発表されていたが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し83に訂正されている。結局、金田は82完封で引退することになったが、もし前記の集計ミスが金田の現役中にわかっていればあと1まで迫っていただけにスタルヒンに並ぶかあるいは逆転もあったのでは…とする意見もある[4]。なお、勝星を稼ぐために中継ぎ転向をしてはどうかというアドバイスもあったがこの記録の更新のために先発にこだわり続けたという。その82完封のうち1/4以上の23試合は1-0のスコアであった(なお、既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である)。また0-1の完投敗戦が21あり、どちらも史上1位である。なお、1-0での完封勝ちはすべて国鉄時代に記録し、0-1の完投敗戦も巨人移籍後は1試合あっただけである。
前述の通り先発だけでなくリリーフもやっていたおかげで、よくサヨナラホームランを打たれることもあり、通算12本は歴代トップである(2位は稲尾和久の10本)。国鉄の対戦5球団すべてに打たれていて、最初の1本目は苦手にしていた阪神の吉田義男で、最後の12本目は巨人の長嶋茂雄だった。なお、12本はすべて国鉄時代に記録されたものである。
また、3年目の1952年には8月9日の対巨人戦で、延長13回裏無死一・三塁から敬遠として投げた1球目が大きくそれてサヨナラ負けを喫したことがある。「敬遠球を暴投してのサヨナラ負け」は、30年後の1982年に阪神の小林繁が記録するまでプロ野球史上唯一の記録であった。
打撃 [編集]
金田は打撃も優れていた。投手として出場して36本塁打は史上1位。他に2本の代打本塁打を記録しており、選手としての通算本塁打は38本である。また、入団11年連続で本塁打を記録した。また、7度敬遠されている。2リーグ制以後の選手としては、野手転向した選手を除くと、投手として唯一1000試合出場を達成している(1リーグ制時代を含むと野口二郎(517試合登板で237勝、野手や代打を含め1098試合出場)がいるほか、藤村富美男も投手として一定の実績があるため)。打者としても一流だった金田が一番凄いと思った投手は権藤正利で、彼のカーブは凄かったと語っている。
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門田博光の不惑踊り

門田 博光(かどた ひろみつ、1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手(外野手)。現在は大阪ホークスドリーム監督。現役時代は南海・ダイエー、オリックスで主に指名打者として活躍した。
40歳を超えても活躍した数少ない選手であり、「不惑の大砲」の異名を持つ。
目次 [非表示]
1 経歴
2 詳細情報
2.1 年度別打撃成績
2.2 背番号
2.3 タイトル・表彰
2.4 個人記録
3 エピソード
3.1 野村克也との関係
3.2 選手として
3.3 健康管理
3.4 人物像
3.5 家族
4 著書
5 解説者としての出演番組
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
経歴 [編集]

天理高校から社会人野球チームクラレ岡山を経て、1968年のドラフトで阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否。翌1969年のドラフトで南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り。
1年目から俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現し、2年目の1971年にレギュラー定着。打率3割、31本塁打、120打点を記録して打点王。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。この頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒットの延長がホームランなんだ」と2人で説得を図ったほどだった[1]。しかし頑固で鳴る門田はこれを一切受け入れず、あくまで長打にこだわった打撃を押し通した。「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。
1979年2月のキャンプで右足のアキレス腱を断裂しほぼ1シーズンを棒に振るが、同年9月には代打で登場した。翌1980年に復活。以降、「ホームランなら足に負担がかからない。全打席ホームランを狙う」と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌1981年には44本塁打で初の本塁打王に輝く。
怪我からの復帰後は脚力が大きく衰え、しばしば「ライトゴロ」を記録するほどで、DHとして出場することがほとんどになった。新人時代に強肩ぶりを誇った肩も著しく衰え、打撃以外の守備・走塁のプレーは到底プロレベルとは呼べないもので「ただバットを力一杯振り回すだけの選手」との揶揄の声もあった。珍プレー番組でも「ホームランを打たなければただのおっさん」と表現されたが、ホームランに美学を求める門田自身は「そうですねえ」と納得していた。南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代には石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあったが、その鈍足・弱肩から守備範囲は相当狭くなっていた。だが、88年の球宴では指名打者部門が設置されておらず秋山幸二・平野謙と共にパリーグ外野手部門でファン投票選出され、狭く外野手の守備力の需要が必ずしも高くないナゴヤ球場での第2戦に3番右翼手で先発出場。門田より22歳下のセリーグ先発2番であった立浪和義が門田より17歳下のパリーグ先発投手阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。
しかし打撃は衰えを見せず、1983年も40本塁打で本塁打王。1987年8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる2000本安打を達成。1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。40歳で44本塁打は日本初の快挙。この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった。その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。この記録は、2010年42歳を迎える楽天イーグルス山崎武司が更新している。
引退時に本塁打を奪った投手の数が184人は王貞治の183人を抑え、2003年に清原和博に抜かれるまで1位だった。現在もパリーグ記録や同一リーグでの日本プロ野球記録である。
1989年に南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強・原田賢治・白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と、古巣への愛着から福岡に移転していた古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の1992年夏、記者に「オレは老衰」と漏らし、現役引退。引退試合は平和台球場でのプロ野球最終公式戦、3番DHで先発し1回裏近鉄バファローズの野茂英雄投手との対戦で、すべて速球をフルスイングで空振りし3球三振だった(広永益隆のソロホームランで挙げた最少得点を若田部健一・吉永幸一郎のバッテリーが守り抜き完封)。
無理にパワーをつけようとして過度の食事を摂ったことで、現役時代から体調不良に悩まされた。ある日、自宅で休養していたところ、突然脈拍が乱れ、体温が急速に下がっていくのを感じた。這いつくばりながら門田は外に出て、太陽を浴びると何とか持ち直した。「あの時晴れていなければ、自分は死んでいただろう」と門田は述懐している。2005年に小脳梗塞を発症し30日間入院したが、幸い後遺症が出ることもなく退院した。
2005年まで朝日放送(ABC)の野球解説者を務めた。2006年、野球殿堂入り。7月21日に神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式に、病気療養中ながら姿を見せている。
2009年現在は大阪にてベンチャー企業の株式会社ヒューマンドリーム、株式会社ホークスドリームの顧問に就任し、起業家の川戸康嗣と共に社会貢献活動に力を注いでいる。同年11月、ホークスドリームと神戸9クルーズが業務提携。これに伴いホークスドリームは神戸9クルーズの2軍という扱いとなり、その監督に就任した。
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岩尾望

岩尾望(いわお のぞむ、1975年12月19日 - )は、吉本興業所属のお笑い芸人。フットボールアワーのボケ担当、相方は後藤輝基。愛称は「のんちゃん」。身長171cm。血液型はB型。
目次 [非表示]
1 略歴
2 人物
3 容貌
4 出演
4.1 テレビ
4.2 テレビドラマ
4.3 映画
4.4 CM
5 脚注
6 外部リンク
7 関連項目
略歴 [編集]

大阪府大阪市東住吉区出身。桃山学院高等学校、関西大学社会学部卒業。NSC14期生。
1994年頃、NSC同期のカネシゲタカシ(現在は漫画家として活躍)とコンビ「ドレス」を結成。
1999年3月にドレスを解散、同年4月にちょうど同時期にコンビを解散していた後藤輝基と新しく「フットボールアワー」を結成した。
26年間自分の血液型を知らず、吉本興業のプロフィールでも「不明」と表記されていたが、単独ライブ「ナイトボールアワー」にて、献血で検査を受けその結果を発表するという企画を行い、B型と判明した。
2008年2月19日発売の週刊誌『FLASH』で、AV女優の糸矢めいとの交際が発覚。4月16日に開かれた日用品のイベントで陣内智則から「糸矢めいちゃんとはどうなの?」と交際を聞かれデレデレした様子を見せた。同年4月28日の関西テレビの番組で、「しばらくそっとしておいてください」というメールが届き、先週末くらいから音信不通になっていることを明かした。破局説も流れたりしたが、2009年9月28日、岩尾が住んでいるマンションが沢尻エリカの実家と同じであり、沢尻の解雇騒動をきっかけに同棲が続いていることが偶然発覚した。またある番組で糸矢の本名と思われる名前を言っていたがその部分は消されている。交際について、2010年2月16日放送の『ジャイケルマクソン』(毎日放送)内で、破局した事を報告している。
人物 [編集]

独特の口調で放つシュールなボケが特徴。ネタでは淡々と進行するものからハイテンションでまくしたてるものまで様々なキャラに豹変する。
アイドル好きで、Berryz工房のファン。メンバーの中では菅谷梨沙子が好き。好きな曲は『付き合ってるのに片思い』。2009年9月1日放送の『踊る!さんま御殿!!』でこの話をした所後藤から「ほな付き合ってへんやろがい!」とツッコミが入った。
Berryz工房の関西でのファンクラブイベントやコンサートには必ず来場し、楽屋に挨拶に行くほど。ただ照れがあるのか、メンバーの前では目を見て話すことができないなど挙動不審になるらしく、菅谷はその点が不満とのこと[1]。
2010年には『ジャイケルマクソン』(毎日放送)の企画である「ジャイケルドッキリプロデュース」で「岩尾がBerryz工房のファンクラブイベントにサプライズゲストとして呼ばれる」という設定のドッキリ企画が敢行されたが、岩尾はリハーサルで一緒に『付き合ってるのに片思い』を歌えたことで「共演できて良かった」と満足げな表情を浮かべていた。[2]
Mr.Childrenの大ファンでもある。
両親ともに京都大学出身の公務員で、母親の言動をよく後藤にネタにされる。
ファッションが趣味で主に裏原宿に入り浸り、服装から眉毛の手入れまでお洒落には人一倍気を遣っている。友達はファッションデザイナーが多く、DVD『ドレキグラム'09』のパッケージデザインは岩尾が愛用するファッションブランドに依頼し完成させた。
子供の頃は明るい少年だったが、小学校高学年頃から周囲に敬遠され始め、高校時代には一人も友人がおらず、当時の同級生の中には、のちにテレビで見て初めて岩尾の声を聞いたという人間もいた。
休み時間は机で寝たフリをしたり、ゆっくり時間を掛けて手洗い場を往復するなどして過ごしていたが、急に嫌われた小中学校時代と違い、高校時代に友達ができなかったのは、着用していた高価な革ジャンを体育などで脱がなければならない時に南京錠を掛けて椅子に固定していたなど、岩尾自身の行動が原因だろうと指摘された。[3]
大学時代も友人は少なく、しばしば勉強をして時間を潰していたという。
現在も人見知りが激しく、他の芸人といる楽屋の雰囲気が苦手なため、11 - 12分わざと遅刻していくことがあるという。[4]
コンビニ弁当は買ったその場で温めてもらって自宅のレンジを使わず、飲み物は要るときに要るだけ冷えているものを買うため 冷蔵庫も使わずにコンセントを抜いているなど、かなりの倹約家で、預金額を知った相方の後藤が「自分は一体どれだけ使ってきたのか」と自省したというほど貯蓄している。
その一方、携帯電話代金を近年まで親に払ってもらっていたり(本人曰く「甘えるのも親孝行のうち」)、2007年では食事を奢った後輩がなかやまきんに君ただ一人で、それも彼が肉を食べないことを承知の上で焼肉に連れて行ったなど、芸人仲間からは単なるドケチであるとの見方が強い。
仕事で女装をするのが嫌いではなく、可愛くメイクした自分の姿をその都度携帯カメラで撮影して写真に残している。番組の意向でセクシー系に仕上げられることが多いが、本人は、そうではなく可愛い感じにしてもらいたいと思っており、好きな女性のタイプも「小柄で可愛らしい、センスの良い女性」で、かなりの面食いでもある。
嫌煙家である。『S-1バトル』の2009年5月エントリー作品「大人になろう」にてセブンスターをヘビースモーカーの後藤から吸わされたが、終始咳が止まらない状況だった。
ドラゴンアッシュの降谷建志と親交が深い。現在音楽番組にも滅多に出演しない降谷が『ジャイケルマクソン』に「のんちゃんのためなら」とVTR出演したことがある。[1]
ビートたけしから、コンビを組みたい芸人として『クメピポ! 絶対あいたい1001人』(毎日放送)最終回で名指しされたことがあるが、本人は「(自分たちの名前を)知っていてもらってるかな?」程度にしか思っていなかったため、光栄に思うよりも先に驚いたと発言している。
容貌は天然系だが、芸人内では天才肌の緻密な計算家として評価されている。それを裏付けるかのように後藤はコンビを組む直前、吉本外の友人に対して「天才肌のやつがおって、今度そいつとコンビ組んでみようと思ってる」と語ったことがある。
2010年1月3日放送の『芸能界プライドバトル ガチマッチ』(関西テレビ)で行われた「一夜漬け!ファミレスカロリー記憶バトル」では、中野裕太、木村美紀と共に150問パーフェクトを達成している。この問題は単に覚えた問題がそのまま出る形式ではなくメニューによってはつけ合わせなどを全てカロリー計算しなくてはならない難易度の高いものである。
なぜか緊張すると口臭が非常にきつくなるという。相方の後藤曰く「奥歯で猫が死んでいると思っている」とのこと。[2]
豆腐が嫌いのようで、2010年の24時間テレビで、「定食屋のおばちゃんへ。いつも定食の味噌汁の豆腐を抜いてくれてありがとう。」とメッセージが書かれてあった。
容貌 [編集]

吉本ブサイクランキングで3年連続第1位となり、殿堂入りを果たす。しかし岩尾本人は自分を特段ブサイクだとは思っていない。2010年に入ってから美顔に目覚め、化粧品や美容グッズを熱心に集めている。
頭頂部の毛髪が年々薄くなり、体は肥ってきている。2008年6月放送の『ジャイケルマクソン』における人間ドックの計測では、ウエストが90cmを超えており、軽度ながらメタボリックシンドロームと診断された。近年、薄毛については吉本主催の育毛プロジェクトに参加し丹念なケアを行い回復しつつあるが、それでも「まあまあハゲている」ことをネタにされている。
2007年12月13日、ラジオ番組の生放送中に、後藤から貰った誕生日プレゼントのバリカンで坊主頭にされた。
ヒゲや体毛が濃く、一番のコンプレックスであると語っている。
マンダムの製品「GATSBY」のCMにて、岩尾が洗顔した後(編集によって)所謂「男前」の木村拓哉に変身する、と言うものが大きく話題になった。本人もこのCMが相当気に入っているらしく、実際同じようなシチュエーションで洗顔を行う動画やパロディコントが上げられたり、「あのCM以降、僕が顔を洗おうとすると周囲がざわつく様になった」と語っている。
投稿者 阿波踊り1 19:58 | コメント(0)| トラックバック(0)

フットボールアワー

フットボールアワーは、岩尾望と後藤輝基の2人によるお笑いコンビである。吉本興業東京本社(東京吉本、厳密には子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー)2003年M-1グランプリ王者。
目次 [非表示]
1 メンバー
2 略歴
3 芸風
4 エピソード
5 受賞歴
6 現在出演中のテレビ番組
7 過去に出演していたテレビ番組
7.1 レギュラー出演
7.2 特別出演・ゲスト出演したテレビ番組
7.3 ドラマ
8 その他出演
8.1 ラジオ
8.2 CM
8.3 映画
9 DVD
10 書籍
11 ライブ
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
メンバー [編集]

岩尾望(いわお のぞむ、1975年12月19日 - )
ボケ担当で立ち位置左。大阪府大阪市東住吉区出身。
後藤輝基(ごとう てるもと、1974年6月18日 - )
ツッコミ担当で立ち位置右。大阪府大阪市東淀川区出身。
共に大阪NSC14期生。
略歴 [編集]

岩尾は「ドレス」、後藤は「後藤・天満」(後に「エレキグラム」に改名)というコンビを経て、1999年4月「後藤・岩尾」としてコンビ結成。同年5月、当時のうめだ花月シアター(後のうめだ花月)で初舞台を踏み、7月 コンビ名を「フットボールアワー」と改める。
由来は、岩尾が読んでいたアメリカの小説の「月曜日のフットボールアワーに間に合わないよ」という科白からの引用。 なお岩尾はこの件について「大した答えが返ってくることはないので、フットボールアワーにコンビ名の由来を尋ねない(で下さい)。聞いた方が損をするだけです、適当に着けた名前ですから」[1]と語っている。その他のコンビ名の候補に「その時 彼女は言った」などがあった[2]。
もともと合同イベントを行うなど友人同士であり、意識し合ってはいたが、同期が次々と辞めていき、それぞれのコンビが解散しても、お互いに自分から組もうとは言い出せず、相手の誘いを待っていた。岩尾は先輩芸人の陣内智則に相談し、「組みたい相手がいるならすぐに言った方がいい」とアドバイスを受け決意するも、「明日言おう」と思っていたところに後藤から電話で切り出され、「別にええけど…」とあくまで上から目線な返事で承諾した。そのことは岩尾の性格もよく顕れたエピソードとして現在もよくネタにしている。
ちなみに後藤も先輩である次長課長の河本に、岩尾と組みたいと思っていることを相談したが、河本からは「二人とも我が強いのでうまくいかない」と反対されていた。(ゴーJ!)
結成翌年の2000年 ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を皮切りに、若手漫才師に与えられる数々の賞を総ナメにした。
M-1グランプリ2001で結成2年目にして決勝進出するも6位、2002は準優勝、本命と言われた2003で悲願の優勝を果たした。また、同大会2006ではV2を目指して参戦したものの2位に終わった。またM-1では数少ない予選敗退経験がなく決勝進出率100%の記録を持つコンビ[3]でもある(4回出場して全て決勝進出)。
2003年8月 当時の主要メンバーと共にbaseよしもとを卒業し、うめだ花月へ移動。現在はルミネtheよしもとを中心に舞台・テレビ等で活動中。
芸風 [編集]

岩尾の多彩なボケと、後藤の鋭いツッコミが特徴。
漫才コンビとしてのイメージが強いが、二人ともコント歴の方が長く、2008年、2009年、2010年にもコントのみのライブを行っており、漫才でも2人とも役になりきるコント漫才が多い。コントでは岩尾が演じる不思議なキャラに後藤が演じる普通の人が振り回されるというものが多い。また、ユニットコントライブ「六人の侍」等にもコンビ揃って参加している。
エピソード [編集]

ネタ作りは二人で行っている。
社交的な後藤と人見知りな岩尾と性格は対極といえるが、コンビ間の仲はきわめて良い。
双方上戸彩のファンであり、互いに自分の方が(上戸を)好きだと言い張っている。(ヨシモト∞)
2人ともボケ出身であったため、岩尾はコンビ結成当初ツッコミをやるつもりだったという。しかし後藤は「こんな顔のヤツに"なんでやねん"と言われることが"なんでやねん"や」と、岩尾のツッコミ転向を全く考えておらず、「ツッコミどっちがやる?」と聞いてきた岩尾に、「なんでやねん!」と1発目のツッコミを入れた。
同じ14期には売れっ子どころか現役がほとんど残っておらず、「(14期は)NSC始まって以来の不作の年」と松本人志に評され、そこで生き残ったエリート二人が組んだのだと反駁した[4]。
二人とも東京在住だが関西ローカルの仕事が多い、移動の際岩尾は飛行機をよく利用し、飛行機嫌いの後藤は新幹線を使う。新幹線で一緒になっても岩尾は嫌煙者、後藤はチェーンスモーカーであるため基本的に同席することはないが、マネージャーが隣同士の席を用意した場合も、自分たちで離れた席へ移動する。ただ、タクシーに乗る為もあり出てくる時はつかず離れず出てくる。
なぜか懇意にしたタレントが後々本人たち以上に大ブレイクすることが多く、無名時代にゲストとしてよくラジオ番組に招いたり遊びに行ったりしていたDAIGOがブレイクした際は、さんま御殿に"DAIGOの友達"として岩尾が出演することになった。
岩尾は高い所が苦手で、後藤も高い所に加え怪奇現象がとにかく苦手。
投稿者 阿波踊り1 19:57 | コメント(0)| トラックバック(0)

原西孝幸

原西 孝幸(はらにし たかゆき、本名同じ、1971年3月5日 - )は、大阪府寝屋川市出身のお笑い芸人、歌手。所属はよしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業)。身長174cm、体重75kg、血液型A型。大阪府立東寝屋川高等学校卒業、奈良大学文学部地理学科中退。NSC8期生。FUJIWARAのボケ担当で、相方は藤本敏史。愛称は「ラリーゴ」「はらにっちゃん」。既婚。
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1 概要
2 ギャグ
2.1 主なギャグ
3 主な出演作品
3.1 テレビ
3.2 ドラマ
3.3 映画
3.4 CM
3.5 その他
4 脚注
5 外部リンク
概要 [編集]

テレビ朝日系『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』の「10m高飛び込み」では相方・藤本のあまりの不甲斐なさに「自分ならすぐに飛べる」と急遽参戦し、言葉通り1位の柴田英嗣を凌ぐ0.96秒で飛んだ。しかし、これは公式記録扱いにされていない。また水泳が得意で『ジャイケルマクソン』(毎日放送制作)の水泳大会でも活動していた。また同番組の「ジャイケルフォトデミー賞」のコーナーで強烈なNSC入学願書写真(異常なほど髪の毛が縦に伸びていた)を見せつけ優勝した。
なかやまきんに君の名付け親である。
原西の母である尚子は、その強烈かつ陽気なキャラクターで『吉本超合金』(テレビ大阪制作)など数々のバラエティ番組に出演。『超合金』では罰ゲーム(番組では「LOVEゲーム」と呼称)も受けたりした。2006年に『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)で全国ネットの番組への出演を果たした。『リンカーン』(TBS系)に出演した際にはさまぁず・大竹一樹とデートしたり、水着姿やブルマー姿を披露し水中で49秒間息を止めたりした。リアクションやカメラ割りを意識したりと若手芸人を凌駕するプロ根性の持ち主で、ダウンタウンの松本人志は彼女のことを「プロ(の芸人)」と呼んでいる。相方の藤本によると、本気で売れたいと思っていたらしい。
しかし、2008年12月3日に尚子は不整脈発作のため62歳で急逝した。2日前の12月1日に収録された『痛快!明石家電視台』(毎日放送制作)が最後のテレビ出演・親子の共演となった。
頭髪が薄くなりかけており、「ハゲてる」といわれても、「ハゲかけているのであって、断じてハゲではない」と主張している。今は亡き母・尚子もハゲかけており、相方の藤本からよく「お前ハゲとるやないかい!」とのセリフを食らっていた。しかし近年、頭皮治療によって頭髪が戻りつつある。
高校の同級生であった一般女性と結婚し、2人の子供がいる。結婚前は女性と接するのが極度に苦手だったため、芸人仲間からは「チェリーボーイ」と呼ばれていた。このことがネタになり『吉本超合金』では全裸の女性をモデルに絵を描くという男なら誰もが喜びそうな企画が行われるも終始困惑した表情で挙動不審な様子だった。
猫好きで2匹の猫を飼っている。番組で「猫イズワイフ(妻)」と番組で言われ、イビられた事があるが原西には実際に妻がおり、飼っている猫は原西の家族の一員である。
雨上がり決死隊の宮迫博之らによると、「根が真面目」。プライベートでも全力でギャグをするといった他の芸人とは違った一面もある。一方で、仕事が終わるとさっさと帰宅してしまう。
キャメロン・ディアスは、『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』(テレビ朝日系)2008年9月24日放送分の「くるくるドカン体操」を1回見ただけで完コピした。
『3年B組金八先生』(TBS系)の熱狂的なファン。出歩く際にドラマの音声のみをiPodに入れて聴いているほど。また、自動車の運転中にも流し、リズムをとりながら聴いているという。就寝前にはiPodに入れた坂本金八の説教を聴くのが習慣であり、聞かないと眠れないほど。また、説教の内容の一部分を聞いただけで、誰に説教しているかを判別できる。しかし、坂本金八は好きだが、演じている武田鉄矢はそうでもないと『ダウンタウンDX』で話した。理由は、金八が絶対にしない下ネタを武田は普通に話すからである。
娘に付き合って女児向けアニメ『夢色パティシエール』や『プリキュア』[1]を見ており、バラエティー番組内でプリキュアの変身の振りと決め台詞を、真面目に全力で披露している。本人はウケ狙いのつもりはないが、顔芸のような表情とオリジナルよりもオーバーアクションの為、笑いが起きる。最近は、娘の為にとマネージャーに「プリキュアの仕事を入れてくれへんか」とお願いしているとの事[2]。
おぎやはぎの小木博明と一緒にゴルフに行くことがあるが、プレイ中は一切会話をしない。また現地集合・現地解散とのこと。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)の「七変化」では相方の藤本と同様に、実母を3回も使ったりした。また、「一休さん」に扮したときに途中で噛んでしまい、ミスで爆笑を誘った部分もあった。その他得意の一発ギャグなどをし、結果は45000円と好成績を出した(現在5位)。
2009年3月10日放送分に出演した『スパイスTV どーも☆キニナル!』(フジテレビ系)の料理コーナー「キッチン de SHOW」では苦手としている梅干しと青ジソが料理に使われたため、試食の際はご飯を食べるだけだった。
高校時代、相方の藤本に借りたファミコンソフト『魁!!男塾 疾風一号生』を中古販売店に100円で売却したことがある。
顔がゴリラに似ていることから「ラリーゴ」と呼ばれている。また、何度か島田紳助に「顔が耳のヤツ」と言われたことがある。2009年6月10日放送の『あらびき団』(TBS系)では雨上がり決死隊の宮迫博之とともに、「ゴリラーズ」として一切喋らずゴリラのマネをするネタを披露した。これは元々、宮迫単独で行なった際に司会の東野幸治が原西とのコンビネタを提案したのがきっかけだった。
ギャグ [編集]

吉本興業きっての一発ギャグマシーンとして知られる。
「ギャグを一兆個(以前は1億個)持っている」と豪語する。これについて雨上がり決死隊のラジオ番組内で「ネタが増えたらどうなるのか」と聞かれ、「ちょうど一兆個。1個増えたら1個消えていく」と語った。しかも一兆個あるにもかかわらず、リスナーからネタを振られても「それはレパートリーにない」と言い切った。なお、2008年1月17日放送の『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)では200個と紹介。2008年6月3日放送の『リンカーン』では、「1兆個のうちテレビで使えるギャグは何個?」という問いかけに対し原西は「6個」と答えていた。本人曰く「一軍は6個」とのこと。
『タカトシ×くりぃむのペケ×ポン』(フジテレビ系)にて、「原西のギャグの数で正しい数字まで原西がベルトコンベアで流されていき、正解と思った数字で止める」というクイズでブラックマヨネーズが「2000個」を選択、しかし、正解は選択肢で一番小さい「200個」だった。失望の空気が流れかけたが原西は「2000個もあったら、お前らに配るわ!」と発言した。また、そんな原西に対抗し母親は、ギャグは2兆個あるとテレビで発言していた。(『さんまのSUPERからくりTV』にて)
有吉弘行に、「ギャグヤリマン」とあだ名を付けられた。
飽きられると困るためあえて流行らないようなギャグを得意としている。明石家さんまには「原西、お前のギャグはホンマに流行らんなぁ」と言われている。
S-1バトルではほとんどの出場芸人がロケやセットを用意したり、テロップなどの編集を施した1分以上の動画を投稿したのに対し、原西はギャグを1回やっただけのわずか9秒間の動画で出場した。
主なギャグ [編集]
動き系のギャグ
ライライラライライライラライライライライラライライライラライライ(足を屈めて、手を交差しながら)
笑ってるけど出て行け♪笑ってるけど出て行け♪(ややウケややすべりの芸人に対して)
上半身下半身。下半身上半身。繋がってるんだね♪
「ASIMOですよ~」と話しながら、手を丸めて動き、最後は充電の為に背中から壁などにくっつく。
ヘヘイヘイヘイ ヘヘイヘイヘイ フルテンションから御臨終
ハイテンション将棋!「先手1二歩!」「後手3八キンキンキキンキンキンキキンキンキンキキンキン・・・」「参りました!」
自己紹介ギャグ
みんな、俺やで!
東・西・南・僕!原西です。
オッス!オラ原西!(ドラゴンボールの孫悟空のパロディ)
どうも!吉本初のインド人、原西です。(違う国籍の場合もある)
歌系のギャグ(替え歌)
ポクチン(一休さんのように「ポクポクポク、チン!」を段々早口にしながら繰り返し、最終的に「チンポチンポチンポチンポチン!」「ポクチン!ポクチン!ポクチンポクチンポクチン!」とリズミカルに歌いながら踊る。芸人が一緒に出演すると伝染するギャグ。ペナルティのワッキーのギャグ「オバケの救急車」と同じタイプ)
「ぐるぐるどっか~ん」ネタ。色々、動きながら、最後は尻を差し出す(いないいないばあっ!のコーナー曲を原西なりにアレンジしたもの)
耳!耳!耳祭り!耳!耳!耳祭り
ウ○コとチ○コ、1文字違い、お尻とメガネは…3文字違い(他のメンバーに当たり前やと突っ込まれる)
ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」のメロディー[1]、(運動会の表彰式に流れる音楽)に乗せて歌われる。また、「鼻毛と輪投げは1文字違い」など別バージョンの歌詞もある。
♪行かないで♪抱きしめて♪I can't say goodbye♪アナゴさん♪アナゴさん♪唇fly away!
♪今夜はもう♪離さない♪baby one a don't you cry♪中島君♪中島君♪眼鏡がfly away!
サザエさんのBGMをアレンジしたギャグ。
なんですって~、手手手手、手手、手ー手ー!(火曜サスペンス劇場のジングルのメロディーに合わせて、手を指差しながら)
ナンバーワンにならなくてもいい もともと歯の抜けたボブおじさん(SMAPの「世界にひとつだけの花」の替え歌)
交差点で百円ひろったよ でも次の日死んだよ(ちびまる子ちゃんのエンディング曲「走れ正直者」の替え歌)
私のーおしりの前でお米たかないでーください(千の風になっての替え歌)
あなたの顔に狙いを決めて 変なチョップ!(ベンザブロックのCMソングの替え歌)
これっくらいの♪おべんとうばこ捨てて♪ハナクソ伸ばす!伸ばす!伸ばす!
♪ウゴギザバラモニモニメケ・・・(子守歌の筈だが、何故か呪いの歌っぽい)
(腕を噛んで、歯形を見せながら)歯形を見ろ!(伯方の塩のCMとの引っ掛け)
ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちっくびの席替え♪
時間通りにやってきたけど、誰とも約束してません♪
すすすす、すいません♪すいません♪ほんま、すいません♪
雨が降ったら!ワイがパーしてワイパー♪
お前のギャ~グを見た~なら♪こ~ゆ~具合に言いしゃんせ♪アウト!アウト!お前アウト!!(野球拳の替え歌。ギャグが滑った相手に使う)
勢いモノマネ
(変な動きをしながら)じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪ニコラス・ケイジでございます♪
まいど、押切もえです!
(変な動きをしながら)どうも滝川クリステルです。
返し系
(相方の藤本や雨上がり決死隊・宮迫博之らから「死ね」と言われた後)生きる!!
他にも、黙れ!!→喋る!! 帰れ!!→居る!!(途中で「ハイ!」と言って引き下がる場合もある)
(相方:藤本に「嫁さん不細工」と言われ)普通じゃ!中の下や!
(相方:藤本に「嫁さん、ルックス中の下や!」と言われ)違う!中の中や!
(相手が話しかけてきたら)ななななななな♪ななななな。なに?(ヨシモト∞にて封印したギャグ)
じゃあ、これも、ムカつく???(「むかつくな」と誰かが言った直後に、尻を突き出しながら言う。「むかつくわ!」と尻を叩かれ突っ込まれるのがお約束)
原西:ウィンじゃんけんじゃんけんほい!!(原西と藤本がジャンケンをする。原西がグーで藤本がパー)藤本:はい勝った!! 原西:ウィーン、ガシャン(原西が機械的にグーからチョキに変えて、逆転勝利)
(納得する事を話され)なるほどな、なるほどなるほどなるほどな!
最初はグー!(ギー)(じゃんけんの掛け声「最初はグー」で、親指と人差し指で輪を作りカメラ目線でポーズを決めてしまうため、結局じゃんけんが行えないというギャグ)
言葉系(動きのないギャグ)
DB(大便)
SB(しょんべん)
その他
鼻くそ、キャッチ、&、リリース、&、キャッチ(鼻くそ、キャッチ、&、リリース、&、ハウス)
ハト胸ネコ背は…、ハト胸の勝ち! ※今までハト胸しか勝ったことがない、本人曰く5分5分らしい
背骨を引っこ抜いたら立ってられへん
空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!スーパーマンだ! いや…鳥だ
1、2・・・ぜんたい、訛れ!イツ、ヌィ
頭隠して尻確実に見て!!!
テヘッ!テヘラン!
暇やな、そうや、死のう!!
起立!礼!リクライニング!
大豆の中からイソフラボン!
初対面でコメカミチョップ!
ウィーンガシャウィーンガシャウィーンガシャまたにティー(またにTという文字を手でつくる)
拝む、しゃがむ、歪む
あん アン
1234567カニ 2234567ザビエル
コレ耳!
居ない居ない居ない・・・居る居る居る居る
「旅行、行くなら、(股間を指差しながら)男の子ならアルゼンチン!(手で股間を隠しながら)女の子ならオマーン!」
「あるマイホームのCMより。(扉を開ける行動をしながら)プー!屁え出るハウス!」(ヘーベルハウスのCMのパロディ)
「落語を一席。『隣の家に、囲いが出来たんだってな』『黙っとけ!』」
(アニマル浜口のように)気合だ!!、気合だ!!(と連発するも、途中で)普通だ、普通だ(と声の勢いが落ち)オイ、オイ、オーイ(と普通の声の勢いで終わる)
(手を回しながら)「レ~ミオ~ロ、メン♪メン♪メン♪」(原西がHEY!HEY!HEY!でレミオロメンのために「ライブでやってほしい」と作ったギャグ。ダウンタウンやメンバーには否定されている。)
などのギャグがある。
投稿者 阿波踊り1 19:56 | コメント(0)| トラックバック(0)

原西孝幸

原西 孝幸(はらにし たかゆき、本名同じ、1971年3月5日 - )は、大阪府寝屋川市出身のお笑い芸人、歌手。所属はよしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業)。身長174cm、体重75kg、血液型A型。大阪府立東寝屋川高等学校卒業、奈良大学文学部地理学科中退。NSC8期生。FUJIWARAのボケ担当で、相方は藤本敏史。愛称は「ラリーゴ」「はらにっちゃん」。既婚。
目次 [非表示]
1 概要
2 ギャグ
2.1 主なギャグ
3 主な出演作品
3.1 テレビ
3.2 ドラマ
3.3 映画
3.4 CM
3.5 その他
4 脚注
5 外部リンク
概要 [編集]

テレビ朝日系『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』の「10m高飛び込み」では相方・藤本のあまりの不甲斐なさに「自分ならすぐに飛べる」と急遽参戦し、言葉通り1位の柴田英嗣を凌ぐ0.96秒で飛んだ。しかし、これは公式記録扱いにされていない。また水泳が得意で『ジャイケルマクソン』(毎日放送制作)の水泳大会でも活動していた。また同番組の「ジャイケルフォトデミー賞」のコーナーで強烈なNSC入学願書写真(異常なほど髪の毛が縦に伸びていた)を見せつけ優勝した。
なかやまきんに君の名付け親である。
原西の母である尚子は、その強烈かつ陽気なキャラクターで『吉本超合金』(テレビ大阪制作)など数々のバラエティ番組に出演。『超合金』では罰ゲーム(番組では「LOVEゲーム」と呼称)も受けたりした。2006年に『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)で全国ネットの番組への出演を果たした。『リンカーン』(TBS系)に出演した際にはさまぁず・大竹一樹とデートしたり、水着姿やブルマー姿を披露し水中で49秒間息を止めたりした。リアクションやカメラ割りを意識したりと若手芸人を凌駕するプロ根性の持ち主で、ダウンタウンの松本人志は彼女のことを「プロ(の芸人)」と呼んでいる。相方の藤本によると、本気で売れたいと思っていたらしい。
しかし、2008年12月3日に尚子は不整脈発作のため62歳で急逝した。2日前の12月1日に収録された『痛快!明石家電視台』(毎日放送制作)が最後のテレビ出演・親子の共演となった。
頭髪が薄くなりかけており、「ハゲてる」といわれても、「ハゲかけているのであって、断じてハゲではない」と主張している。今は亡き母・尚子もハゲかけており、相方の藤本からよく「お前ハゲとるやないかい!」とのセリフを食らっていた。しかし近年、頭皮治療によって頭髪が戻りつつある。
高校の同級生であった一般女性と結婚し、2人の子供がいる。結婚前は女性と接するのが極度に苦手だったため、芸人仲間からは「チェリーボーイ」と呼ばれていた。このことがネタになり『吉本超合金』では全裸の女性をモデルに絵を描くという男なら誰もが喜びそうな企画が行われるも終始困惑した表情で挙動不審な様子だった。
猫好きで2匹の猫を飼っている。番組で「猫イズワイフ(妻)」と番組で言われ、イビられた事があるが原西には実際に妻がおり、飼っている猫は原西の家族の一員である。
雨上がり決死隊の宮迫博之らによると、「根が真面目」。プライベートでも全力でギャグをするといった他の芸人とは違った一面もある。一方で、仕事が終わるとさっさと帰宅してしまう。
キャメロン・ディアスは、『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』(テレビ朝日系)2008年9月24日放送分の「くるくるドカン体操」を1回見ただけで完コピした。
『3年B組金八先生』(TBS系)の熱狂的なファン。出歩く際にドラマの音声のみをiPodに入れて聴いているほど。また、自動車の運転中にも流し、リズムをとりながら聴いているという。就寝前にはiPodに入れた坂本金八の説教を聴くのが習慣であり、聞かないと眠れないほど。また、説教の内容の一部分を聞いただけで、誰に説教しているかを判別できる。しかし、坂本金八は好きだが、演じている武田鉄矢はそうでもないと『ダウンタウンDX』で話した。理由は、金八が絶対にしない下ネタを武田は普通に話すからである。
娘に付き合って女児向けアニメ『夢色パティシエール』や『プリキュア』[1]を見ており、バラエティー番組内でプリキュアの変身の振りと決め台詞を、真面目に全力で披露している。本人はウケ狙いのつもりはないが、顔芸のような表情とオリジナルよりもオーバーアクションの為、笑いが起きる。最近は、娘の為にとマネージャーに「プリキュアの仕事を入れてくれへんか」とお願いしているとの事[2]。
おぎやはぎの小木博明と一緒にゴルフに行くことがあるが、プレイ中は一切会話をしない。また現地集合・現地解散とのこと。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)の「七変化」では相方の藤本と同様に、実母を3回も使ったりした。また、「一休さん」に扮したときに途中で噛んでしまい、ミスで爆笑を誘った部分もあった。その他得意の一発ギャグなどをし、結果は45000円と好成績を出した(現在5位)。
2009年3月10日放送分に出演した『スパイスTV どーも☆キニナル!』(フジテレビ系)の料理コーナー「キッチン de SHOW」では苦手としている梅干しと青ジソが料理に使われたため、試食の際はご飯を食べるだけだった。
高校時代、相方の藤本に借りたファミコンソフト『魁!!男塾 疾風一号生』を中古販売店に100円で売却したことがある。
顔がゴリラに似ていることから「ラリーゴ」と呼ばれている。また、何度か島田紳助に「顔が耳のヤツ」と言われたことがある。2009年6月10日放送の『あらびき団』(TBS系)では雨上がり決死隊の宮迫博之とともに、「ゴリラーズ」として一切喋らずゴリラのマネをするネタを披露した。これは元々、宮迫単独で行なった際に司会の東野幸治が原西とのコンビネタを提案したのがきっかけだった。
ギャグ [編集]

吉本興業きっての一発ギャグマシーンとして知られる。
「ギャグを一兆個(以前は1億個)持っている」と豪語する。これについて雨上がり決死隊のラジオ番組内で「ネタが増えたらどうなるのか」と聞かれ、「ちょうど一兆個。1個増えたら1個消えていく」と語った。しかも一兆個あるにもかかわらず、リスナーからネタを振られても「それはレパートリーにない」と言い切った。なお、2008年1月17日放送の『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)では200個と紹介。2008年6月3日放送の『リンカーン』では、「1兆個のうちテレビで使えるギャグは何個?」という問いかけに対し原西は「6個」と答えていた。本人曰く「一軍は6個」とのこと。
『タカトシ×くりぃむのペケ×ポン』(フジテレビ系)にて、「原西のギャグの数で正しい数字まで原西がベルトコンベアで流されていき、正解と思った数字で止める」というクイズでブラックマヨネーズが「2000個」を選択、しかし、正解は選択肢で一番小さい「200個」だった。失望の空気が流れかけたが原西は「2000個もあったら、お前らに配るわ!」と発言した。また、そんな原西に対抗し母親は、ギャグは2兆個あるとテレビで発言していた。(『さんまのSUPERからくりTV』にて)
有吉弘行に、「ギャグヤリマン」とあだ名を付けられた。
飽きられると困るためあえて流行らないようなギャグを得意としている。明石家さんまには「原西、お前のギャグはホンマに流行らんなぁ」と言われている。
S-1バトルではほとんどの出場芸人がロケやセットを用意したり、テロップなどの編集を施した1分以上の動画を投稿したのに対し、原西はギャグを1回やっただけのわずか9秒間の動画で出場した。
主なギャグ [編集]
動き系のギャグ
ライライラライライライラライライライライラライライライラライライ(足を屈めて、手を交差しながら)
笑ってるけど出て行け♪笑ってるけど出て行け♪(ややウケややすべりの芸人に対して)
上半身下半身。下半身上半身。繋がってるんだね♪
「ASIMOですよ~」と話しながら、手を丸めて動き、最後は充電の為に背中から壁などにくっつく。
ヘヘイヘイヘイ ヘヘイヘイヘイ フルテンションから御臨終
ハイテンション将棋!「先手1二歩!」「後手3八キンキンキキンキンキンキキンキンキンキキンキン・・・」「参りました!」
自己紹介ギャグ
みんな、俺やで!
東・西・南・僕!原西です。
オッス!オラ原西!(ドラゴンボールの孫悟空のパロディ)
どうも!吉本初のインド人、原西です。(違う国籍の場合もある)
歌系のギャグ(替え歌)
ポクチン(一休さんのように「ポクポクポク、チン!」を段々早口にしながら繰り返し、最終的に「チンポチンポチンポチンポチン!」「ポクチン!ポクチン!ポクチンポクチンポクチン!」とリズミカルに歌いながら踊る。芸人が一緒に出演すると伝染するギャグ。ペナルティのワッキーのギャグ「オバケの救急車」と同じタイプ)
「ぐるぐるどっか~ん」ネタ。色々、動きながら、最後は尻を差し出す(いないいないばあっ!のコーナー曲を原西なりにアレンジしたもの)
耳!耳!耳祭り!耳!耳!耳祭り
ウ○コとチ○コ、1文字違い、お尻とメガネは…3文字違い(他のメンバーに当たり前やと突っ込まれる)
ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」のメロディー[1]、(運動会の表彰式に流れる音楽)に乗せて歌われる。また、「鼻毛と輪投げは1文字違い」など別バージョンの歌詞もある。
♪行かないで♪抱きしめて♪I can't say goodbye♪アナゴさん♪アナゴさん♪唇fly away!
♪今夜はもう♪離さない♪baby one a don't you cry♪中島君♪中島君♪眼鏡がfly away!
サザエさんのBGMをアレンジしたギャグ。
なんですって~、手手手手、手手、手ー手ー!(火曜サスペンス劇場のジングルのメロディーに合わせて、手を指差しながら)
ナンバーワンにならなくてもいい もともと歯の抜けたボブおじさん(SMAPの「世界にひとつだけの花」の替え歌)
交差点で百円ひろったよ でも次の日死んだよ(ちびまる子ちゃんのエンディング曲「走れ正直者」の替え歌)
私のーおしりの前でお米たかないでーください(千の風になっての替え歌)
あなたの顔に狙いを決めて 変なチョップ!(ベンザブロックのCMソングの替え歌)
これっくらいの♪おべんとうばこ捨てて♪ハナクソ伸ばす!伸ばす!伸ばす!
♪ウゴギザバラモニモニメケ・・・(子守歌の筈だが、何故か呪いの歌っぽい)
(腕を噛んで、歯形を見せながら)歯形を見ろ!(伯方の塩のCMとの引っ掛け)
ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちっくびの席替え♪
時間通りにやってきたけど、誰とも約束してません♪
すすすす、すいません♪すいません♪ほんま、すいません♪
雨が降ったら!ワイがパーしてワイパー♪
お前のギャ~グを見た~なら♪こ~ゆ~具合に言いしゃんせ♪アウト!アウト!お前アウト!!(野球拳の替え歌。ギャグが滑った相手に使う)
勢いモノマネ
(変な動きをしながら)じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪ニコラス・ケイジでございます♪
まいど、押切もえです!
(変な動きをしながら)どうも滝川クリステルです。
返し系
(相方の藤本や雨上がり決死隊・宮迫博之らから「死ね」と言われた後)生きる!!
他にも、黙れ!!→喋る!! 帰れ!!→居る!!(途中で「ハイ!」と言って引き下がる場合もある)
(相方:藤本に「嫁さん不細工」と言われ)普通じゃ!中の下や!
(相方:藤本に「嫁さん、ルックス中の下や!」と言われ)違う!中の中や!
(相手が話しかけてきたら)ななななななな♪ななななな。なに?(ヨシモト∞にて封印したギャグ)
じゃあ、これも、ムカつく???(「むかつくな」と誰かが言った直後に、尻を突き出しながら言う。「むかつくわ!」と尻を叩かれ突っ込まれるのがお約束)
原西:ウィンじゃんけんじゃんけんほい!!(原西と藤本がジャンケンをする。原西がグーで藤本がパー)藤本:はい勝った!! 原西:ウィーン、ガシャン(原西が機械的にグーからチョキに変えて、逆転勝利)
(納得する事を話され)なるほどな、なるほどなるほどなるほどな!
最初はグー!(ギー)(じゃんけんの掛け声「最初はグー」で、親指と人差し指で輪を作りカメラ目線でポーズを決めてしまうため、結局じゃんけんが行えないというギャグ)
言葉系(動きのないギャグ)
DB(大便)
SB(しょんべん)
その他
鼻くそ、キャッチ、&、リリース、&、キャッチ(鼻くそ、キャッチ、&、リリース、&、ハウス)
ハト胸ネコ背は…、ハト胸の勝ち! ※今までハト胸しか勝ったことがない、本人曰く5分5分らしい
背骨を引っこ抜いたら立ってられへん
空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!スーパーマンだ! いや…鳥だ
1、2・・・ぜんたい、訛れ!イツ、ヌィ
頭隠して尻確実に見て!!!
テヘッ!テヘラン!
暇やな、そうや、死のう!!
起立!礼!リクライニング!
大豆の中からイソフラボン!
初対面でコメカミチョップ!
ウィーンガシャウィーンガシャウィーンガシャまたにティー(またにTという文字を手でつくる)
拝む、しゃがむ、歪む
あん アン
1234567カニ 2234567ザビエル
コレ耳!
居ない居ない居ない・・・居る居る居る居る
「旅行、行くなら、(股間を指差しながら)男の子ならアルゼンチン!(手で股間を隠しながら)女の子ならオマーン!」
「あるマイホームのCMより。(扉を開ける行動をしながら)プー!屁え出るハウス!」(ヘーベルハウスのCMのパロディ)
「落語を一席。『隣の家に、囲いが出来たんだってな』『黙っとけ!』」
(アニマル浜口のように)気合だ!!、気合だ!!(と連発するも、途中で)普通だ、普通だ(と声の勢いが落ち)オイ、オイ、オーイ(と普通の声の勢いで終わる)
(手を回しながら)「レ~ミオ~ロ、メン♪メン♪メン♪」(原西がHEY!HEY!HEY!でレミオロメンのために「ライブでやってほしい」と作ったギャグ。ダウンタウンやメンバーには否定されている。)
などのギャグがある。
投稿者 阿波踊り1 19:56 | コメント(0)| トラックバック(0)

原西孝幸

原西 孝幸(はらにし たかゆき、本名同じ、1971年3月5日 - )は、大阪府寝屋川市出身のお笑い芸人、歌手。所属はよしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業)。身長174cm、体重75kg、血液型A型。大阪府立東寝屋川高等学校卒業、奈良大学文学部地理学科中退。NSC8期生。FUJIWARAのボケ担当で、相方は藤本敏史。愛称は「ラリーゴ」「はらにっちゃん」。既婚。
目次 [非表示]
1 概要
2 ギャグ
2.1 主なギャグ
3 主な出演作品
3.1 テレビ
3.2 ドラマ
3.3 映画
3.4 CM
3.5 その他
4 脚注
5 外部リンク
概要 [編集]

テレビ朝日系『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』の「10m高飛び込み」では相方・藤本のあまりの不甲斐なさに「自分ならすぐに飛べる」と急遽参戦し、言葉通り1位の柴田英嗣を凌ぐ0.96秒で飛んだ。しかし、これは公式記録扱いにされていない。また水泳が得意で『ジャイケルマクソン』(毎日放送制作)の水泳大会でも活動していた。また同番組の「ジャイケルフォトデミー賞」のコーナーで強烈なNSC入学願書写真(異常なほど髪の毛が縦に伸びていた)を見せつけ優勝した。
なかやまきんに君の名付け親である。
原西の母である尚子は、その強烈かつ陽気なキャラクターで『吉本超合金』(テレビ大阪制作)など数々のバラエティ番組に出演。『超合金』では罰ゲーム(番組では「LOVEゲーム」と呼称)も受けたりした。2006年に『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)で全国ネットの番組への出演を果たした。『リンカーン』(TBS系)に出演した際にはさまぁず・大竹一樹とデートしたり、水着姿やブルマー姿を披露し水中で49秒間息を止めたりした。リアクションやカメラ割りを意識したりと若手芸人を凌駕するプロ根性の持ち主で、ダウンタウンの松本人志は彼女のことを「プロ(の芸人)」と呼んでいる。相方の藤本によると、本気で売れたいと思っていたらしい。
しかし、2008年12月3日に尚子は不整脈発作のため62歳で急逝した。2日前の12月1日に収録された『痛快!明石家電視台』(毎日放送制作)が最後のテレビ出演・親子の共演となった。
頭髪が薄くなりかけており、「ハゲてる」といわれても、「ハゲかけているのであって、断じてハゲではない」と主張している。今は亡き母・尚子もハゲかけており、相方の藤本からよく「お前ハゲとるやないかい!」とのセリフを食らっていた。しかし近年、頭皮治療によって頭髪が戻りつつある。
高校の同級生であった一般女性と結婚し、2人の子供がいる。結婚前は女性と接するのが極度に苦手だったため、芸人仲間からは「チェリーボーイ」と呼ばれていた。このことがネタになり『吉本超合金』では全裸の女性をモデルに絵を描くという男なら誰もが喜びそうな企画が行われるも終始困惑した表情で挙動不審な様子だった。
猫好きで2匹の猫を飼っている。番組で「猫イズワイフ(妻)」と番組で言われ、イビられた事があるが原西には実際に妻がおり、飼っている猫は原西の家族の一員である。
雨上がり決死隊の宮迫博之らによると、「根が真面目」。プライベートでも全力でギャグをするといった他の芸人とは違った一面もある。一方で、仕事が終わるとさっさと帰宅してしまう。
キャメロン・ディアスは、『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』(テレビ朝日系)2008年9月24日放送分の「くるくるドカン体操」を1回見ただけで完コピした。
『3年B組金八先生』(TBS系)の熱狂的なファン。出歩く際にドラマの音声のみをiPodに入れて聴いているほど。また、自動車の運転中にも流し、リズムをとりながら聴いているという。就寝前にはiPodに入れた坂本金八の説教を聴くのが習慣であり、聞かないと眠れないほど。また、説教の内容の一部分を聞いただけで、誰に説教しているかを判別できる。しかし、坂本金八は好きだが、演じている武田鉄矢はそうでもないと『ダウンタウンDX』で話した。理由は、金八が絶対にしない下ネタを武田は普通に話すからである。
娘に付き合って女児向けアニメ『夢色パティシエール』や『プリキュア』[1]を見ており、バラエティー番組内でプリキュアの変身の振りと決め台詞を、真面目に全力で披露している。本人はウケ狙いのつもりはないが、顔芸のような表情とオリジナルよりもオーバーアクションの為、笑いが起きる。最近は、娘の為にとマネージャーに「プリキュアの仕事を入れてくれへんか」とお願いしているとの事[2]。
おぎやはぎの小木博明と一緒にゴルフに行くことがあるが、プレイ中は一切会話をしない。また現地集合・現地解散とのこと。
『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)の「七変化」では相方の藤本と同様に、実母を3回も使ったりした。また、「一休さん」に扮したときに途中で噛んでしまい、ミスで爆笑を誘った部分もあった。その他得意の一発ギャグなどをし、結果は45000円と好成績を出した(現在5位)。
2009年3月10日放送分に出演した『スパイスTV どーも☆キニナル!』(フジテレビ系)の料理コーナー「キッチン de SHOW」では苦手としている梅干しと青ジソが料理に使われたため、試食の際はご飯を食べるだけだった。
高校時代、相方の藤本に借りたファミコンソフト『魁!!男塾 疾風一号生』を中古販売店に100円で売却したことがある。
顔がゴリラに似ていることから「ラリーゴ」と呼ばれている。また、何度か島田紳助に「顔が耳のヤツ」と言われたことがある。2009年6月10日放送の『あらびき団』(TBS系)では雨上がり決死隊の宮迫博之とともに、「ゴリラーズ」として一切喋らずゴリラのマネをするネタを披露した。これは元々、宮迫単独で行なった際に司会の東野幸治が原西とのコンビネタを提案したのがきっかけだった。
ギャグ [編集]

吉本興業きっての一発ギャグマシーンとして知られる。
「ギャグを一兆個(以前は1億個)持っている」と豪語する。これについて雨上がり決死隊のラジオ番組内で「ネタが増えたらどうなるのか」と聞かれ、「ちょうど一兆個。1個増えたら1個消えていく」と語った。しかも一兆個あるにもかかわらず、リスナーからネタを振られても「それはレパートリーにない」と言い切った。なお、2008年1月17日放送の『ダウンタウンDX』(日本テレビ系)では200個と紹介。2008年6月3日放送の『リンカーン』では、「1兆個のうちテレビで使えるギャグは何個?」という問いかけに対し原西は「6個」と答えていた。本人曰く「一軍は6個」とのこと。
『タカトシ×くりぃむのペケ×ポン』(フジテレビ系)にて、「原西のギャグの数で正しい数字まで原西がベルトコンベアで流されていき、正解と思った数字で止める」というクイズでブラックマヨネーズが「2000個」を選択、しかし、正解は選択肢で一番小さい「200個」だった。失望の空気が流れかけたが原西は「2000個もあったら、お前らに配るわ!」と発言した。また、そんな原西に対抗し母親は、ギャグは2兆個あるとテレビで発言していた。(『さんまのSUPERからくりTV』にて)
有吉弘行に、「ギャグヤリマン」とあだ名を付けられた。
飽きられると困るためあえて流行らないようなギャグを得意としている。明石家さんまには「原西、お前のギャグはホンマに流行らんなぁ」と言われている。
S-1バトルではほとんどの出場芸人がロケやセットを用意したり、テロップなどの編集を施した1分以上の動画を投稿したのに対し、原西はギャグを1回やっただけのわずか9秒間の動画で出場した。
主なギャグ [編集]
動き系のギャグ
ライライラライライライラライライライライラライライライラライライ(足を屈めて、手を交差しながら)
笑ってるけど出て行け♪笑ってるけど出て行け♪(ややウケややすべりの芸人に対して)
上半身下半身。下半身上半身。繋がってるんだね♪
「ASIMOですよ~」と話しながら、手を丸めて動き、最後は充電の為に背中から壁などにくっつく。
ヘヘイヘイヘイ ヘヘイヘイヘイ フルテンションから御臨終
ハイテンション将棋!「先手1二歩!」「後手3八キンキンキキンキンキンキキンキンキンキキンキン・・・」「参りました!」
自己紹介ギャグ
みんな、俺やで!
東・西・南・僕!原西です。
オッス!オラ原西!(ドラゴンボールの孫悟空のパロディ)
どうも!吉本初のインド人、原西です。(違う国籍の場合もある)
歌系のギャグ(替え歌)
ポクチン(一休さんのように「ポクポクポク、チン!」を段々早口にしながら繰り返し、最終的に「チンポチンポチンポチンポチン!」「ポクチン!ポクチン!ポクチンポクチンポクチン!」とリズミカルに歌いながら踊る。芸人が一緒に出演すると伝染するギャグ。ペナルティのワッキーのギャグ「オバケの救急車」と同じタイプ)
「ぐるぐるどっか~ん」ネタ。色々、動きながら、最後は尻を差し出す(いないいないばあっ!のコーナー曲を原西なりにアレンジしたもの)
耳!耳!耳祭り!耳!耳!耳祭り
ウ○コとチ○コ、1文字違い、お尻とメガネは…3文字違い(他のメンバーに当たり前やと突っ込まれる)
ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」のメロディー[1]、(運動会の表彰式に流れる音楽)に乗せて歌われる。また、「鼻毛と輪投げは1文字違い」など別バージョンの歌詞もある。
♪行かないで♪抱きしめて♪I can't say goodbye♪アナゴさん♪アナゴさん♪唇fly away!
♪今夜はもう♪離さない♪baby one a don't you cry♪中島君♪中島君♪眼鏡がfly away!
サザエさんのBGMをアレンジしたギャグ。
なんですって~、手手手手、手手、手ー手ー!(火曜サスペンス劇場のジングルのメロディーに合わせて、手を指差しながら)
ナンバーワンにならなくてもいい もともと歯の抜けたボブおじさん(SMAPの「世界にひとつだけの花」の替え歌)
交差点で百円ひろったよ でも次の日死んだよ(ちびまる子ちゃんのエンディング曲「走れ正直者」の替え歌)
私のーおしりの前でお米たかないでーください(千の風になっての替え歌)
あなたの顔に狙いを決めて 変なチョップ!(ベンザブロックのCMソングの替え歌)
これっくらいの♪おべんとうばこ捨てて♪ハナクソ伸ばす!伸ばす!伸ばす!
♪ウゴギザバラモニモニメケ・・・(子守歌の筈だが、何故か呪いの歌っぽい)
(腕を噛んで、歯形を見せながら)歯形を見ろ!(伯方の塩のCMとの引っ掛け)
ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちゃんがちゃんが♪ちっくびの席替え♪
時間通りにやってきたけど、誰とも約束してません♪
すすすす、すいません♪すいません♪ほんま、すいません♪
雨が降ったら!ワイがパーしてワイパー♪
お前のギャ~グを見た~なら♪こ~ゆ~具合に言いしゃんせ♪アウト!アウト!お前アウト!!(野球拳の替え歌。ギャグが滑った相手に使う)
勢いモノマネ
(変な動きをしながら)じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪じゃんがじゃんが♪ニコラス・ケイジでございます♪
まいど、押切もえです!
(変な動きをしながら)どうも滝川クリステルです。
返し系
(相方の藤本や雨上がり決死隊・宮迫博之らから「死ね」と言われた後)生きる!!
他にも、黙れ!!→喋る!! 帰れ!!→居る!!(途中で「ハイ!」と言って引き下がる場合もある)
(相方:藤本に「嫁さん不細工」と言われ)普通じゃ!中の下や!
(相方:藤本に「嫁さん、ルックス中の下や!」と言われ)違う!中の中や!
(相手が話しかけてきたら)ななななななな♪ななななな。なに?(ヨシモト∞にて封印したギャグ)
じゃあ、これも、ムカつく???(「むかつくな」と誰かが言った直後に、尻を突き出しながら言う。「むかつくわ!」と尻を叩かれ突っ込まれるのがお約束)
原西:ウィンじゃんけんじゃんけんほい!!(原西と藤本がジャンケンをする。原西がグーで藤本がパー)藤本:はい勝った!! 原西:ウィーン、ガシャン(原西が機械的にグーからチョキに変えて、逆転勝利)
(納得する事を話され)なるほどな、なるほどなるほどなるほどな!
最初はグー!(ギー)(じゃんけんの掛け声「最初はグー」で、親指と人差し指で輪を作りカメラ目線でポーズを決めてしまうため、結局じゃんけんが行えないというギャグ)
言葉系(動きのないギャグ)
DB(大便)
SB(しょんべん)
その他
鼻くそ、キャッチ、&、リリース、&、キャッチ(鼻くそ、キャッチ、&、リリース、&、ハウス)
ハト胸ネコ背は…、ハト胸の勝ち! ※今までハト胸しか勝ったことがない、本人曰く5分5分らしい
背骨を引っこ抜いたら立ってられへん
空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!スーパーマンだ! いや…鳥だ
1、2・・・ぜんたい、訛れ!イツ、ヌィ
頭隠して尻確実に見て!!!
テヘッ!テヘラン!
暇やな、そうや、死のう!!
起立!礼!リクライニング!
大豆の中からイソフラボン!
初対面でコメカミチョップ!
ウィーンガシャウィーンガシャウィーンガシャまたにティー(またにTという文字を手でつくる)
拝む、しゃがむ、歪む
あん アン
1234567カニ 2234567ザビエル
コレ耳!
居ない居ない居ない・・・居る居る居る居る
「旅行、行くなら、(股間を指差しながら)男の子ならアルゼンチン!(手で股間を隠しながら)女の子ならオマーン!」
「あるマイホームのCMより。(扉を開ける行動をしながら)プー!屁え出るハウス!」(ヘーベルハウスのCMのパロディ)
「落語を一席。『隣の家に、囲いが出来たんだってな』『黙っとけ!』」
(アニマル浜口のように)気合だ!!、気合だ!!(と連発するも、途中で)普通だ、普通だ(と声の勢いが落ち)オイ、オイ、オーイ(と普通の声の勢いで終わる)
(手を回しながら)「レ~ミオ~ロ、メン♪メン♪メン♪」(原西がHEY!HEY!HEY!でレミオロメンのために「ライブでやってほしい」と作ったギャグ。ダウンタウンやメンバーには否定されている。)
などのギャグがある。
投稿者 阿波踊り1 19:55 | コメント(0)| トラックバック(0)

踊り383

交遊 [編集]
プライベートでは志村けんと飲み歩くことが多く、師匠と呼んで敬愛する。志村の旅番組ではほぼ毎回出演者に名を連ねる。また、落語家の6代目三遊亭圓楽と飲むことも多い。
志村との交流を持つようになった契機は、上島の著書『これが俺の芸風だ!』で言及されており、それによると、友人の川田利明から、志村が酒の席で「『上島に会いたい』と言っていた」という電話が掛かってきた。だが当時、志村と面識があまりなく遠慮して断ったが、川田からそれでも会いたいと何度も電話が掛かってきて、最終的には志村本人から呼び出されて志村の元へ駆けつける。そこで志村と酒を飲んで電話番号を交換し、さらには「今度仕事をしよう」と言われて飲み会が終わるが、数日後スケジュールに『バカ殿』の仕事が本当に入っていた。その場だけのことだと思っていた上島はビックリして志村に電話、再び酒を飲み志村から「もっと甘えて来ても良い」と言われる。その瞬間から志村にとことん甘えるようになり、現在に至っている。
西田敏行とも交流が深く、バラエティ番組で上島がもともと西田敏行にあこがれていると言った際に本人が登場したことから交友関係が始まり。『遠山金四郎美容室』での共演をきっかけに『釣りバカ日誌』シリーズや『虹をつかむ男』など西田が主演する作品にチョイ役で出演することが多く、2000年代後半以降は宝くじのCMでも共演している。西田本人からは「他人とは思えないほど似てるよ」「世界には3人自分と似てる人が居ると言われるけど、君はその一人だよ」「今までで他人同士での兄弟役で一番そっくりな兄弟だ」と言われた。
土田などの後輩芸人を飲みに連れて行った際に先輩として悩み事を聞いてやるはずが、酔いが回るにつれ逆に人に対して「俺はこれからどうすればいいんだ!」と泣いて苦悩を吐露することがある。土田が若手時代に「上島さん」から「上島」と呼び捨てにするきっかけになった[7]。
エピソード [編集]

『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系列)にて、増田明美・石塚英彦・勝俣州和らと出演した際、増田の饒舌ぶりに対して、最初は帽子をさんまに投げつけ、石塚らに止められて「済みません、取り乱しました」としていたものの、番組後半では「関係ない!」と逆ギレする。しまいには、土下座して「もう勘弁して下さい」と、半ベソで増田に懇願。司会の明石家さんまから「泣くな、プロやろ」と、たしなめられた。
『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』(日本テレビ系列)の24時間マラソンを走り終えたときに、徳光和夫に「上島(かみしま)」と言われたことがある。
雑誌のインタビューで持ちギャグについて聞かれた際に、番組の流れで偶然生まれたセリフがギャグになったり、他の芸人から貰ったギャグや後輩のアドバイスを受けてできたギャグも多く、ギャグは考えてできるものじゃないと語っている。また、ギャグを後輩の有吉や土田に相談した際は3000円払っていると言う[8]。
携帯電話ではメールも打てないので通信手段は通話のみ。もちろんパソコンはまったく使えない(2010年5月20日『志村軒』でカミングアウト)。
『アメトーーク』では、その芸風から、出川哲朗 ・三村マサカズ(さまぁず)・山崎邦正と共に「ポンコツ芸人」の括りで出演している。
芸風 [編集]

主な芸 [編集]
これらは芸を超えて、もはや「定番」「お約束」になっている。フリからオチまでのしらじらしい過程を楽しむものである。
泣き芸 - 先輩芸人などにいじめられた際に泣き出す芸。舌を喉に押し込むことによって涙を溜めるため、若干、準備時間を要する。
人工呼吸 - プールなど、水が近くにある場合、溺れた挙句に救出され、寺門ジモンに胸元を押してもらう。この際、口の中には水がふくまれており、マンガの人命救助のように2、3回ぴゅーっと水を出す。水以外にも、口にふくめる物が手近にあった場合、臨機応変に利用する。
どうぞどうぞ - 何らかのイベント(上島ですらやりたがらないであろうリアクション芸など)をやらされるのを上島が嫌がっている中で、上島の周りの人が「俺がやる!」「いや俺がやるよ!」と上島以外(通常のコント等ではダチョウのメンバーのみであるが、場合によっては周りの芸人・タレント十数人)が手を挙げる。少し間をおいて上島が「じゃあ俺も」と手を挙げた途端、周りの人が全員「どうぞどうぞ」と上島にそれを譲る。
熱湯風呂 - 上記「どうぞどうぞ」と勧められた後のお約束のひとつ。熱湯風呂といっても、実際には適温の湯(45℃前後)であり、熱がるのは演技である。近年は、実際には熱湯ではないことが予め分かる演出を組み込んだ上で、あえて後から熱がりながら湯に足を入れる演技を行う、という演出技法も散見される。また、リアクションを一通り終えた後、カメラに向かって、「For Beautiful Human Life.(カネボウ化粧品のかつてのキャッチフレーズ)」という決め台詞をいうパターンもある。
キレ芸 - 主に出川哲朗やカンニング竹山などとキレ気味に怒りながら口論が始まると、徐々に顔を近づけ軽く口付けをし照れる、または仲直りする。ただ、このネタは事務所の後輩である有吉弘行といったメンバーに通用しないこともある。
裸になる(逆バンジージャンプで裸になることもしばしばある)。
帽子芸 - 他の芸人にぞんざいな仕打ちを受けた時、懐の中に隠し持っていた帽子をわざわざ被り直し、それを足元に叩き付け一言「訴えてやる!」と叫び、最後に「くるりんぱ!」といいながら帽子を1回転させて被り直して終わる。度重なるリクエストや帽子を隠されるなどの不測の事態に対応するためか、近年ではいくつもの帽子を「予備」として仕込んでいることも。
ジャンプ芸 - 上島があることでキレて、机などを思いっきり叩くと回りにいるメンバーとともにジャンプする。公の場で初めて披露したのは『アメトーーク』の「肥後という男 シーズン2」の回。上島自身、最近はこれを押している。だが、バラエティー番組ではあまり広まっていないことから、最初はダチョウ倶楽部の三人、そしてこのネタをすでに知っている有吉、土田といった竜兵会のメンバーのみでやっている。
他キャラクター芸 [編集]
「 - ちゃん」「 - おじさん」といった人物を、即興で編み出すキャラ芸を持っている。ただ、考え込まれてないため、ほとんどがすべる。
豆絞り - 裸に豆絞りの頭巾とふんどしをしたキャラ。『スーパージョッキー』(日本テレビ系列)内の企画「熱湯コマーシャル」で登場。また、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで』(同局系列)の「ハイテンション・ザ・グランプリ」で、豆絞り男を熱演し、高い評価を得ている。その際、松本人志が罰ゲームとして豆しぼり男を演じるも、恥ずかしさのあまり土下座してしまい、スタジオ内の爆笑を誘ったこともある。
へっぽこおじさん - 裸に豆絞りの頭巾とふんどしをしたキャラは「豆絞り」の男と同じだが、さらに腰を左右に振りながら歩く。
セリフ [編集]
「殺す気か!」- 酷い扱いを受けた後必死の形相で叫ぶ。『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系列)で登場。
「くるりんぱ!」- 被っている帽子を回転させながら持ち上げ、被り直して言う。床に帽子を叩きつけるネタの「着地点」として主に用いられる。
「取り乱しました」- ひとしきりキレた後、平静に戻って言う。
「金貸してくれ!」
「いつか見返してやるからな!」
「これが俺の芸風だ!」- 周りが自分の芸に失笑しているときに、開き直って言う。
「ねえ!殿!」- 酷い目にあった後、ビートたけしや志村けんに向かって言う。
「絶対に押すなよ!」- 熱湯風呂や高所、プールサイドなどに立った際に必ず発言。ここで「背中を押してくれよ」と同義である。「いいか、お前ら押すなよ!押すな!絶対に押すなよ!」のように使われた場合、最後の「絶対に押すなよ」の場所で背中を押せという意味である。上記の「殺す気か!」へとつながるケースも。なお時間がたっても押さない場合は、「押せよ!」と切れるネタもある。
「チェックメイト!」- 特に理由付けやきっかけといったものがなく、話の終りなどに唐突に叫ぶ(本人談)。『アメトーーク』(テレビ朝日系列)において、単に相手を「驚かせるだけ」のネタであることが判明した。元々は「王手!」と言うネタだったが後輩の有吉のアドバイスを受けてチェックメイトになった。
「上島竜兵○歳。代表作これといってなし。」
何か口にしたときに、「この○○(料理名)は甘からず、かといって辛からず、そして美味からず」と言うと、「まずいんじゃねーかよっ!」と肥後・寺門のツッコミが入る。
ものまねレパートリー [編集]
すべて顔真似(かつら・メイクをした状態)だけであり、声はあまり似ていない。
西田敏行 - 顔が似ていることから、ドラマ『遠山金志郎美容室』(日本テレビ系列)で、西田の弟役を演じたことがある。また、前記したが2008年5月から西田が『西田夢蔵』に扮する『ジャンボ宝くじ』のCMに『西田小夢蔵』に扮して『夢蔵』との共演を果たした。その他にも、『オールスター感謝祭』の2択クイズで西田の歌うシーンの一部と同じ背景で上島が歌まねをするような映像も作られた。また、日本国外では「釣りバカ」と言われることもあるという[要出典]。
大仁田厚 - 2007年、全日本プロレスで行われた武藤祭にて、大仁田のものまねをしてF-1タッグ選手権試合を行った。本人とものまねしながら共演することもある。
山城新伍
アブドーラ・ザ・ブッチャー
ザ・グレート・カブキ
野村沙知代・野村克也[要出典]夫妻 - このものまねは、非常に似ていると評判が高い[誰?]。清水國明は「本人よりそっくり」とコメントしている。野村沙知代・克也両人共に、このものまねを絶賛しており、気に入っている。沙知代本人が出てきた時はビンタされると思ったとコメントしている。沙知代から克也にチェンジするネタもある[要出典]。
ナオミ・キャンベル
今くるよ
細木数子
橋田壽賀子 - 基本的にオバさん、熟女ネタは似ている[要出典]。
藤岡琢也(岡倉大吉) - 『渡る世間は鬼ばかり』ファンの高島ちさ子から咬む所が似ていると絶賛される[要出典]。
小林旭 - 1991年の『ものまね王座』で初披露したときは声も似ていた。
大屋政子 - 1997年の『ものまね王座』で初披露したときは小林同様声も似ていた。
愛田武
秋元康 - 秋元本人も似ているとコメントしている[要出典]。
桑野信義 - 酒を飲んで志村けんの悪口を言う。うつみ宮土理は「酒癖の悪さも似ている」と発言している[要出典] 。
木村太郎[要出典]
華ゆり(サカイ引越センター)[要出典]
ドン小西[要出典]
ほか
投稿者 阿波踊り1 22:17 | コメント(0)| トラックバック(0)

腹踊り

上島 竜兵 (うえしま りゅうへい 、本名:上島 龍平(読みは同じ)、1961年1月20日 - )は、ダチョウ倶楽部に属するタレント、リアクション芸人、大ボケ(時折ツッコミ)、俳優。兵庫県丹波市春日町生まれ、神戸市垂水区育ち。神戸市立鈴蘭台中学校、神戸村野工業高等学校卒。血液型はAB型。星座はやぎ座。身長162cm。所属事務所は太田プロダクション。妻はタレントの広川ひかる。
通称「竜ちゃん」(先輩芸人が使用する)または「竜さん」(若手芸人などが使う)。
ダチョウ倶楽部の中で、最も体を張っているいじられキャラで有名。怒って帽子をたたきつけるリアクションを持ちネタの一つとする。
目次 [非表示]
1 来歴
2 人物
2.1 人物像
2.2 趣味・嗜好
2.3 交遊
3 エピソード
4 芸風
4.1 主な芸
4.2 他キャラクター芸
4.3 セリフ
4.4 ものまねレパートリー
5 竜兵会
6 出演メディア
6.1 テレビ番組
6.2 ラジオ
6.3 映画
6.4 DVD
6.5 著書
6.6 舞台
6.7 CM
7 脚注
8 関連項目
9 外部リンク
来歴 [編集]

元々は役者志望で、青年座研究所、テアトル・エコー附属養成所に在籍。テアトル・エコー附属養成所の同期だった寺門ジモンに誘われて渡辺正行の下を訪ねたのがきっかけで、お笑いの道に入る。その際渡辺に紹介されたのが南部虎弾と肥後克広で、それがダチョウ倶楽部の原型になる。南部脱退後、テレビで活動する機会が多くなり、ダチョウ倶楽部はその存在を世に知らしめることとなる。
2005年8月には自伝&写真集『これが俺の芸風だ!!』を上梓。2008年2月には、『わらしべ夫婦双六旅』で新橋演舞場初出演し、初の本格的な舞台に挑んだ。
人物 [編集]


この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2007年6月に貼り付けられました。
人物像 [編集]
「笑われようと、笑わせようと、そこに笑いさえあれば、変わりはない」[1]を持論としている。また、「人をさげすんだ笑いはイヤ」[1]とも語っている。
後輩と飲んでいると酔ってお笑いについて熱く語るのが恒例となっているが、事務所の後輩の土田晃之曰く、「何にも面白くないから、ただの拷問」。ある時、「上島が語ろうとしたと同時に店のブレーカーが落ちる」ということが3回続けて起こるという奇跡が起きたことがある。
土田晃之に泥酔して長々と説教していた。その時土田が「もうわかりましたよ」と何度も言ったが、最終的に腹を立てた土田から頭突きされたことがある。この件については後日土田が謝罪している。
兵庫県出身で、テレビなどでは関西弁を使わずに標準語で話しているが、プライベートでは使っている。ただし、土田によれば「下手くそ」とのこと。
誕生日の1月20日は暦の上でいう大寒であり、「一年で最も寒い日」に生まれたことを有吉弘行に発見され、愕然としたという[2]。
土田曰く「ダチョウ倶楽部の中で一番の常識人は上島さんなんです。上島さんの好きな番組は『NHKスペシャル』ですから」とのこと。しかし、その番組の良さを伝えようとしても、「話術が全くなく馬鹿だから何を伝えたいのかがほとんどわからない」という[3]。
また、かなり思い込みが激しい性格で、ある時有吉弘行が上島行きつけの店で勝手に上島のキープしていたボトルを飲みきり、いたずらで中に水を入れた。数日後に竜兵会でその店に行き、上島がそのボトル(水)を飲んでいると、2時間でベロベロに酔っ払ったことがある[4]。
自身がバイセクシャルであることを公言している[5]。
趣味・嗜好 [編集]
芸能界での阪神タイガースファンの集まりである「中野猛虎会」の一員である。同会では書記を務めているが、会長であるダンカンや副会長の松村邦洋と比べると、タイガースに関する知識はあまりない。また某番組[要出典]で「最も心に残る阪神の試合は?」の質問に「天覧試合」と答えていた。ただし、かの有名な「長嶋のサヨナラホームラン」が出た天覧試合は1959年6月25日であり、上島が生まれる前の出来事である。
プライベートでは外車(メルセデス・ベンツ600、ベントレー・コンチネンタルGT)に乗っている。しかし、上島自身はペーパードライバーのせいなのか、ほとんど妻が運転している。また、同じ種類の本を予備として、2冊ずつ買ってくるなど無駄使いが激しく、志村けんに「お前は芸以外は本当に無駄が多い。外車とかキャラが違うんだから見栄張って乗るなよ」と言われたことがある。
服のセンスが相当悪い。
妻に結婚10周年のプレゼントとして有吉と共に服を買いに行ったら、有吉曰く「おばあちゃんが還暦で着そうな服」を選んでいた。有吉は即座に止めて、結局有吉が選んだという。
『虹をつかむ男』にホームレスとしてワンシーンの出演をした際、細部まで拘る山田洋次監督の「今日用意された衣装の中に、竜ちゃんの役にしっくりくる衣装がない」という理由で翌日に撮影が延期された。帰ろうと私服に着替えて挨拶に向かった上島は山田監督に「それだ!!」と見初められ、結局私服でホームレス役として出演した[6]。
煙草はマイルドセブン・エクストラライトを吸っている。シーンによっては、マイルドセブンの他の重さを吸っている場合もある。
投稿者 阿波踊り1 22:16 | コメント(0)| トラックバック(0)

上島竜兵

├─≠ョ─ヵラス 妻は元女優のサエコ。弟が2人おり末弟は俳優のKENTA。

├─≠ョ─ヵラス 父が枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べる

├─≠ョ─ヵラス 最初に手に取ったのが野球のボールだった

├─≠ョ─ヵラス 父はサッカー選手であった

├─≠ョ─ヵラス サッカーのボールも蹴って渡したがそれも投げた

├─≠ョ─ヵラス 小学校2年生から本格的に野球を始め

├─≠ョ─ヵラス 50以上の高校からスカウトがあった

├─≠ョ─ヵラス 環境面等を理由に東北高等学校に入学する

├─≠ョ─ヵラス 甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた

├─≠ョ─ヵラス 1年生秋からエースに就き

├─≠ョ─ヵラス 195cmの長身から繰り出す速球

├─≠ョ─ヵラス 高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった

├─≠ョ─ヵラス 高野連より厳重注意処分を受けた

├─≠ョ─ヵラス 日本ハムがダルビッシュを単独1位指名

├─≠ョ─ヵラス 2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ

├─≠ョ─ヵラス 春季キャンプは二軍スタートとなった

├─≠ョ─ヵラス 社会貢献活動を命じる処分を言い渡した

├─≠ョ─ヵラス 本人を停学処分とした

├─≠ョ─ヵラス イースタンで初登板しその後完封勝利も記録

├─≠ョ─ヵラス それ以降先発ローテーションに定着

├─≠ョ─ヵラス 年俸は倍増の3000万円で一発サインした

├─≠ョ─ヵラス 開幕当初は不振であった

├─≠ョ─ヵラス 自身公式戦10連勝を記録

├─≠ョ─ヵラス 7回1失点の好投でチームを勝利に導いた

├─≠ョ─ヵラス 11奪三振1失点完投で勝利

├─≠ョ─ヵラス この活躍により日本シリーズ優秀選手賞を受賞した

├─≠ョ─ヵラス チームの新エースへと成長した

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた

├─≠ョ─ヵラス 初の開幕投手を務めた

├─≠ョ─ヵラス 女優・サエコとの結婚を報告した

├─≠ョ─ヵラス 最多奪三振、ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルを獲得

├─≠ョ─ヵラス パ・リーグシーズンMVPに選出

├─≠ョ─ヵラス 北京オリンピック代表のエースにも指名された

├─≠ョ─ヵラス 2年連続で中日ドラゴンズと対決した

├─≠ョ─ヵラス 川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった

├─≠ョ─ヵラス 史上最年少の2億円プレーヤーとなった

├─≠ョ─ヵラス 岩隈久志とタイトル争いを繰り広げた

├─≠ョ─ヵラス 初戦キューバ戦のマウンドを託された

├─≠ョ─ヵラス 千葉ロッテとの激しい3位争いを制する原動力になった

├─≠ョ─ヵラス この年は主要タイトルこそ獲得できなかった

├─≠ョ─ヵラス 防御率も2年連続の1点台を記録した

├─≠ョ─ヵラス 日本シリーズを含むポストシーズン史上最多となった

├─≠ョ─ヵラス 西武打線の内角をえぐるツーシームを多投

├─≠ョ─ヵラス プロ5年目としては球界史上最高額となった

├─≠ョ─ヵラス 先発3本柱として原監督から指名される

├─≠ョ─ヵラス シーズンでは3年連続開幕投手として岩隈との投げ合った

├─≠ョ─ヵラス 初めて岩隈に敗れてしまった

├─≠ョ─ヵラス 校出の選手としては松坂の111試合をしのぐ最速記録であった

├─≠ョ─ヵラス 肩の張りが出やすい状態であった

├─≠ョ─ヵラス 怪我の箇所に負担がかからぬ

├─≠ョ─ヵラス キャッチボールのような投球フォームであった

├─≠ョ─ヵラス 今の状態では出来過ぎ以上

├─≠ョ─ヵラス 一世一代の投球ができた

├─≠ョ─ヵラス 右手人さし指を疲労骨折していた事が判明した

├─≠ョ─ヵラス 巨人打線を抑えて勝ち投手となった

├─≠ョ─ヵラス ベストナインとMVPを受賞した

├─≠ョ─ヵラス 史上最年少の3億円プレーヤーとなった

├─≠ョ─ヵラス 自ら培ってきた技術を日本球界に還元したい

├─≠ョ─ヵラス 5試合連続で二桁奪三振

├─≠ョ─ヵラス シーズンを通して安定したピッチングをした

├─≠ョ─ヵラス 投球回数200イニングを達成した

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュはプロ野球で初めて同球種を投げた投手である

├─≠ョ─ヵラス オールスターゲームでは打者の手元で浮き上がるカットボールを投げた

├─≠ョ─ヵラス 千葉マリンスタジアムでは制球に苦しむことが多い

├─≠ョ─ヵラス 独自の調整法を採用している

├─≠ョ─ヵラス 素行の悪さ・プロ意識の低さも目立った

├─≠ョ─ヵラス 事からトレーニング内容まで自己管理している

├─≠ョ─ヵラス 球界関係者が実力的に現役最高の投手と認めている

├─≠ョ─ヵラス 総合力でナンバーワンの投手

├─≠ョ─ヵラス 「ダルビッシュ軍団」を結成している

├─≠ョ─ヵラス 涌井と練習の時やプライベートの時もいつも一緒に行動していた

├─≠ョ─ヵラス 元大阪のホテルで行われた「励ます会」に出席

├─≠ョ─ヵラス マイクロバス購入のため200万円を寄付した

├─≠ョ─ヵラス 開発途上国への水の支援を行う

├─≠ョ─ヵラス 「ダルビッシュ有 水基金」を設立

├─≠ョ─ヵラス 10万円を日本水フォーラムに寄付している

├─≠ョ─ヵラス 故郷への恩返しのため、グラウンドの建設費用を出したい

├─≠ョ─ヵラス 5月下旬に300万円の義援金を送った

├─≠ョ─ヵラス 2010年度ゴールデンスピリット賞が贈られることが決定した

├─≠ョ─ヵラス 公式戦12連勝:史上5人目

├─≠ョ─ヵラス 高卒新人の初登板初勝利:史上12人目

├─≠ョ─ヵラス 高卒新人の完封勝利:史上14人目

├─≠ョ─ヵラス 20歳以下の日本シリーズ勝利:史上5人目

├─≠ョ─ヵラス 日本シリーズ1試合13奪三振:史上3人目

├─≠ョ─ヵラス 同一日本シリーズ24奪三振:歴代2位

├─≠ョ─ヵラス 公式戦開幕5戦連続2桁奪三振:史上初

├─≠ョ─ヵラス 日ハムの若きエース ダルビッシュ 進化の軌跡

├─≠ョ─ヵラス ユニホーム忘れた!「ヤギビッシュ」で11連勝

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ、結婚を語ったヒーローインタビューは狙い通り

├─≠ョ─ヵラス 日本のエースです!ダル2戦連続完投11勝

├─≠ョ─ヵラス 周囲に打ち明けず…日本ハム・ダル、骨折していた!

├─≠ョ─ヵラス ダルビッシュ丸刈りで球場入り
投稿者 阿波踊り1 22:15 | コメント(0)| トラックバック(0)

踊り162

コーナーのキャラクター
出前の人
『THE THREE THEATER』のキャラクター。弁当やそばを出前するが自己中心的な理由で出演者が頼んだものと違うものを持ってくる。そのため色々注意されてしまうが、最後には出演者に説教をする。例えば、しずる・池田には「困ったときに顔で落とすのはやめなさい」やフルーツポンチ・亘には「祟るぞ」と言った。
テレ朝の人間
『THE THREE THEATER』のキャラクター。出演者の控え室に入っては出演者のことを持ち上げているが、実はテレビ朝日のスパイである。例えば、我が家に対しては「面白い。『言わせねーよ。』って今日やるの?期待してるから。」、しずるに対しては「フジテレビから出すなって周りが言ってたよ。」、柳原可奈子には「人間観察の女王」、狩野英孝には「マセキの一番星!もう出川抜いてるよ。」、ロッチに対しては最初は知らんぷりしたが、後に「こないだはゴメン。忘れてた。」と最初は謝り、「最近、急成長してるよね。みんながやってるよ。『UFOどこ』って。」と褒め言葉を言う。そして出演者が全員そろった時は「上に行くんだってね。もう元祖爆笑王が言いまくってたよ。」とみんなに言った。最後に、元祖爆笑王が唯一の親友であることを明かした。
マネージャー
『THE THREE THEATER』のキャラクター。大変頼りないためいつも出演者に迷惑ばかりかけているマネージャー。例えば、はんにゃ・金田に明日のスケジュールが「入浴」と言ったが、実は「ニューヨーク」だったと謝る、フルーツポンチ・村上にドラマの主演のオファーが来るも、「お笑いに集中させたい。」ということが理由で断る、ジャルジャルにバラエティ番組のメインとして出演してほしいとオファーが来るも、まだ先の話なので「また今度電話をかけます。」と折角の東京進出のチャンスなのに断る、などがある。
フリーライター
『THE THREE THEATER』のキャラクター。出演者の取材をするも、出演者のネタを見たことがない、出演者のグループ名は知っているが個人名は知らないなど色々な意味で困らせている。我が家の場合は「三人の名前の最初の文字をとって名づけたのですか?」と質問したり、はんにゃ・フルーツポンチの取材では金田と村上の写真撮影はするもそれぞれの相方である川島・亘の写真は撮影しない、狩野英孝に対しては一切取材をしないなどの対応を取っている。
キリハラミナコ(実際どう漢字を書くのかはわからない)
『THE THREE THEATER』のキャラクター。ドラマのプロデューサーで、柳原可奈子とはんにゃの金田哲がお気に入り。しかし、柳原のネタは見たことがあまりない。
店主
最後の「赤劇場」のコーナーで登場。レギュラー芸人の悩みを聞いてくれる。しかしたまに、悩みを打ち明ける側に説教をすることがある。
杉下ウッ京
『相棒』に登場する杉下右京のパロディキャラ。被害者柳原の証言を元に、亀山役の坪倉とともに、4人の容疑者の中から犯人を当てる。犯人はモノボケをして一番面白くなかった者が連行される。内村は杉下右京の特徴的な言動や行動を細かく真似ているが、坪倉は特に真似るような事は行っておらず、亀山が着ているのと似たジャケットを着ているのみ。*:2009年12月16日放送から、坪倉に代わり福徳が神戸役として、ともに解決している。福徳も坪倉と同じように特に真似るようなことはしておらず、神戸が着ているのと似た衣装を着ているのみである。
投稿者 阿波踊り1 08:24 | コメント(0)| トラックバック(0)

踊り161

『THE THREE THEATER』『爆笑レッドシアター』のキャラクター [編集]
コントのキャラクター
ナカムラ
THE THREE THEATERのユニットコント「ビジュアル系バンド@レストラン」に出てくるキャラクター)。シュウヘイ(我が家・坪倉)、アキラ(ジャルジャル・福徳)、ユージ(ジャルジャル・後藤)、タク(しずる・村上)とともにバンドを組んでいるが一人だけ浮いている。浮いている理由として、年がみんなよりも20歳ほど上である。それにみんなの名前は下の名前なのに一人だけ苗字のナカムラであること。そして担当楽器がサイドギターであることが挙げられる。髪型が特徴的でスザンヌに「あのカツラどこにあったんですか?」と聞かれると、「楽屋に入ったら置いてあった。」と答えた。
ハワイ詩人
コント「路上詩人@ハワイ」に登場。路上詩人として演じているロッチ・中岡の父親役として登場。最後の部分だけ息がぴったり、笑ってしまうほど怒られたなどが理由で、中岡の弟役のロッチ・コカドに中岡とともにツッコまれる。
ミルフィーユ
ユニットコント『劇団ジョセフィーヌ』のはんにゃ・金田が演じるジョセフィーヌのライバルとして登場した。ジョセフィーヌが関西弁でしゃべるのに対し、ミルフィーユは博多弁でしゃべる。『イケメン部』か『劇団ジョセフィーヌ』のどちらかに出て下さいとスタッフからオファーがあり、『イケメン部』は事務所の後輩の狩野英孝がいるためか「ケガをするから嫌だ!」と断ったので、『劇団ジョセフィーヌ』に参加することになったと本人はコメントしている。衣装も何パターンか考えていてすごく迷ったとのこと(その様子をフルーツポンチ・亘が目撃していた)。内村のスイーツのイメージは「ショートケーキ」で止まっており、「ミルフィーユ」がイメージ出来なかったため、ショートケーキから連想されるイチゴの飾りを付けていた。
小柳
ネコ耳の被り物を着けた、謎のおじさん。ユニットコント「悪魔と天使と小柳」シリーズ[3]に登場する。「悪魔と天使と小柳@グラウンド」[4]で初登場。
天使と悪魔で十分なのに、なぜ彼が入っているのかと言うと「ニーズに合わせて選択肢が多いほうが良い」という理由で入れた。一番年上なので、三人組のリーダーである。
内村本人いわく「福徳のツッコミを受けることができて嬉しかった。」「ああいう(台本にはないアドリブが出来る)のが大好き。」とコメントしている。
タイムトラベラー サネアツ
戦国時代から現代にタイムトラベルして来た武士。秀吉の首を狙っている。戦国時代の人間であるため、現代のことについては勿論知らない(コントの舞台であるファーストフード店や「空気を読む」と言う言葉を知らない)。最後に柳原演じる客の女子に恋をする。本人いわく着替えに20分かかるため大変だったとコメントしている。
投稿者 阿波踊り1 08:24 | コメント(0)| トラックバック(0)

黄金伝説

├─≠ョ─ヵラス ココリコ
├─≠ョ─ヵラス









てる
コント「てるとたいぞう」の主人公。元は刑事だが、同僚の刑事たいぞう(原田泰造)と捜査を共にする内にホモであることを自覚し、犯人捜査の途中の事故によるたいぞうの殉職(死亡)以降、たいぞうの弟である後任の刑事たいしろうとも殉職で死別[2]。刑事を辞め、その後もたいぞうそっくりのキャラクターに出会い続け、波乱流転の人生を歩むという不運なキャラクター。たいぞう、たいぞうの弟たいしろう、たいぞうの叔父たいのしん、地方の漁師たいきち(全て原田泰造)など、たいぞうそっくりの人物に必ず出くわす。境遇も刑事を辞めた後、地方に隠遁生活し、和服姿のゲイバーのママ(名倉潤)との同棲生活では、無精髭を生やし人生に疲れ切っている。ママ(名倉)の殺傷事件の責任の肩代わりをし、電車で逃亡後、地方の漁港の漁師に落ち着く。息をつく暇もなく、てるの人生を巡ってしつこく纏わり付くたいぞうのキャラクターが特徴。
葉山先輩
「一度きりの夏、21の夏。」を大事にしている28歳。長髪に髭を生やし、煙草を吸う姿はどう見ても恋愛巧者だが、実は童貞。後日談のコント「葉山先輩は今」では、48歳でも全く変わらない姿で登場した。
マサシゲ
誰にでもベラベラ話しかけるいわゆる今時の若者。出っ歯。最近すごく好きだった彼女にふられたらしい。市役所や病院でそうとうけむたがれている。
ハンサム侍
『笑う犬』のコントで配役を決めるアンケートをとった際、「奈良の竪琴」の水島以来2度目の◎をつけたキャラクターだったらしい。タイトルにはいつも「これは内村光良が気持ちよくなるための物語である。」と表記されていた。
水野講師
コント「ドッグ電器」で新入社員を鬼のように鍛える講師。後に支店長に就任する。生徒にあだ名をつけ、特に南原に対しては、「でこぼこ」「ゴルフボール」「クレーター野郎」「からあげクン」「バレンシアオレンジ」など言いたい放題であった。これはアドリブであったようで、南原はかなり動揺していた。石田(原田泰造)に贔屓をするホモ。元ネタは『フルメタル・ジャケット』と『戦場のメリークリスマス』。
玉木しげる
コント「10円」に登場。玉川上水で入水自殺未遂後、新宿でホストを経験、貢いでいた女性に子供をはらませ、逃げるように北海道へ移住した。現在TTI通信という金融会社に勤務。行く先々で兄弟や親、芥川龍之介に間違えられるが、本人もまんざらではない態度をとる。驚くと「まじで」や「まさか」などを言おうとするも、口は動くが声は出なくなる。このコントの中では、なぜか内村はセリフを間違えることが多かった。
『夢で逢えたら』のキャラクター [編集]
ムラさん
本名、村三吉。初老の男で、慇懃な態度だがずるがしこく金に汚い。自称労務者。ピストルなど武器を持てば、武器で脅しその小さな仲間内で必ず主導権を得ようとする権力欲の塊。たいてい最後にはひどい目に合わされる。ちなみに先祖の村二吉役で内村宏幸が登場している。
投稿者 阿波踊り1 08:23 | コメント(0)| トラックバック(0)